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徒然エッセイ│自由でありたいと願う、心は不自由になっていく

「自由」に魅了されたのは、大学3年生の時。文学の講義で取り上げられた、安房直子さんの「鳥」と言う作品に触れてから。それはとても短く、簡単な言葉で書かれた、それでいて、自由の果てしない美しさを教えてくれるものでした。
 舞台は海沿いの街。少年と少女が出会って心を通わせていく。二人はささやかだけれど、楽しい時間を一緒に過ごします。そしていつしか、遠く、開けた、海のずっと向こうまで続いている広い世界にでたいと 憧れを抱いていきました。けれど、少年の母親は彼を決して手放したくない、広い世界に行かせたくないと考え、二人を引き離そうとします。でも、二人はその手を潜り抜けて、自分たちの向かいたい場所、広い海へと出て行ける。そんな風に思える、優しく、かわいらしい結末を迎えます。(この物語はネットで全文掲載されていますので、ぜひ一度読んでみてください。きっと優しい気持ちになれると思います。)
 この作品は夕暮れ時の穏やかな海岸や、西日に照らされた部屋の中、そしてずっと先まで続く海など、美しい情景に彩られています。その一つ一つが私に広く、開いた、世界への憧れとその美しさを教えてくれます。頭に浮かび上がるその美しいイメージを忘れることができず、何度も何度も読み返しました。その度、広い世界で羽を広げて飛び回ったらどんなに心躍るだろう、何にも縛られず自由でいられたなら、どんなに素晴らしい心地だろうと想いを馳せる。いつしか私は自由であること、自由と言う言葉の美しさに強いあこがれを抱くようになっていました。
 けれど、私たちの生活は自由なことばかりではありません。人間関係のわずらわしさに辟易としたり、勝手なイメージやたった一つの言動から生まれたレッテルで、知らず知らず形成されていく「自分」という存在にいらだつこともある。これは本当の自分ではない、もっと自由でありたい、自由でなくちゃいけないと、何度も自分に言い聞かせる。憧ればかりが募っていく。
 そしてある時ふと気づく。自由を追い求めて、自由でない自分を否定して、全然自由にはなれていないこと。そして自由の意味さえ分からないということ。願うほど、自由でいなくちゃいけない、ということに縛られて私はどんどん不自由になっていた。自由を追い求めて、世界を憎むようにして生きてきた時間。私はひどく苦しかったのだ。自由という言葉に縛られて。
 休日の朝。カーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。眠たい目を擦って、ポットで湯を沸かす。朝食をパンにしようか、ご飯にしようか迷っている。そんな些細な瞬間に、ああ、これさえあればいいのだと、ふと思いました。とらわれていた、果てない世界への憧れから解き放たれて、目の前にある営みの温度に触れ、ようやく地に足が付いたように思う。自由に憧れてから、6年以上が経っていました。
 今でも、広い世界へのあこがれがないわけではない。自由と言う言葉は春風のように、私の心を誘います。それでも、そのことだけに縛られて不自由になることはない。今は目の前のことをじっくりと見つめて、確かめるように撫で、地面の感触をゆっくりと感じていたい、と思います。

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