このあたりの人たち / 川上弘美

 所謂掌編小説であり、それでいてひと繋がりのストーリーでもある。短編集によくみられるこの感じ。前にもお話したその感じ。

 書店で気になって手に取った。彼女の書き物を読むのはこれが初めてだった。お話たちはショートショート特有の不思議さを存分に纏っている。それは短いから説明できなかったという類いの曖昧さではなく、説明の必要なんてないでしょ?というような、そういった曖昧さ。

 小さな町の物語では互いの顔や名前を知らず知らずのうちに知ってしまっている。そしていつか聞いた落語の世界の如く、いやそれはつまり現実と同じように、近所には煙たがられている奴も居たりする。発達障害と診断名を付けて支援学級に通わせて、相応の教育を受けさせて、健常者はその子をバカにしてはいけない。それが良心的な今の現実世界の常識なら、物語の世界は非常識にあたるのだろう。だが私にはどちらがより差別的なのかわからない。確かにちゃんと自他理解して個人に合った生活を支援するべきではあるだろう。そうした制度がなくて、よくない結果に陥った過去もあるだろう。だからこの世界が間違っているとは思わない。だけど、このただでさえ生きづらい世の中で、普通よりちょっと生きづらい事情を抱えた子どもたちが、この本のように生きられたら美しいのになと少し思う。このあたりの人たちみたいに、時にはバカにしたり敬遠したりしつつもある部分では受け容れて認めている、そんな世界なら美しい。生きるのが少し下手な子はちゃんと教育しないと、事件を起こしたり巻き込まれたりするかもしれない。だから現実は正しい。まぁ生きるのが上手な子にだって危険は付き物な筈だけど。でも、健常者が受け容れてあげたのに、障害者が受け容れてくれない可能性もあるってことだけは、あなたがどちら側の人間でも忘れるべきではない。そもそも境界線なんて誰かが引いただけで実はどこにも存在しないんだけどね。

 そういう話になると思うところあるのか書き連ねてしまう私は、以前働いていたグループホームの老人たちの認知症がもしすべて演技だったなら面白いな、そんな話でも書こうかなとか考えたり、好きな音楽を得たりして、休日を使い果たしていく訳です。

 それでね、何の話だっけ?ああ、このあたりの人たちのようであってそうではない私やこの世界の人たちは、なにをどこで間違ったんだろうね。いや、多分誰も何も間違ってなんていない。でもそれなのに皆嘆いていて、間違いを探していたり、怒ることをやめられないまま時代を越えてしまったりしている。もし間違いがあるならそんな些細なことだけだ。つまり、間違いがあると思い込んでいることだけが、この世界の唯一であり尊大な間違いなのだろう。私がかなえちゃんのお姉さんみたいでも、なんならこのあたりの人たちの誰みたいでもないのならそれは、私自身がそう望んでいるからなのだ。

 ハッピーエンドやバッドエンドが欲しいなら掌編小説なんて読んだって仕方がない。有り得ない筈なのにどこか知っているようなぬめっとした温度を絡めとって、もしかしたら本当に存在していたのかもしれないそれを匿ってあげる。そうしたら私だって物語の一部になれる。あなたなんかが主人公だったりするらしい。

 ああ私やっぱり、書くのは向いていないのかしら。ほら、何を言っているのかわからないでしょう?それでもあなたが読みさえすればそれが答えなの。だからうっかり見つかることを早朝の星空に願うわ。ばいばい、またあそぼうね。

 

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