泊まり込みで絵を描くアート合宿に参加してきた。
あまりにたくさんのことを感じたため、そこでの経験すべてを言葉にすることは難しいので、私の描いた絵について、今日は書こうと思う。
私が描きあげたのは、この作品たち。
(実際はここにさらに手が加わって完成させた)
まずは、絵を観賞してもらえたらうれしい。どんなことを感じるだろう?
言葉にしてみてほしい。
(言葉にできたら続き読んでね)
私は、絵を描くことが怖かった。「絵を描きたい」という気持ちはいつもあったけれど、その気持ちとは裏腹に、いつも「描きたくない」と思っていた。それは、私にとって絵は「評価」というものが付き纏うものだったから。だから、評価を感じて心が縮こまるたびに、そうではない角度にひゅっと逃げて、本当に絵を描くということを避けていた。
絵の具を使って色と遊ぶことは、いつでも容易に行えた。それが捨てられてしまう紙だったらいくらでも。けれど、スケッチブックやキャンパスを前にすると、身がすくむ。怯んでしまう。今回合宿をガイドしてくれた画家のしゅんちゃんには、「絵を難しいものと考えてるんだね。色と遊ぶ、それでいいんだよ。」そう言ってもらって、頭では理解した。「なーんだ、それならできそう!」って。
いざ、キャンバスに向かい合ったら、どうだろう。1枚目の絵は、比較的なにも考えずに描きあげることができた。2枚目を描こうとして、いつもなら「これは私っぽくない」「絵としてまとめて完成させるのは難しそうだ」と思うような図形のイメージが頭の中に浮かんできた。「せっかく合宿に来てるんだもの。自分の殻を打ち破りたい。」そう思って、その図形をキャンバスに乗せてからが、苦しくて苦しくてたまらない時間を過ごすこととなった。それは、1日半という時間を、スマホにも逃げず、自分とだけ向き合った、長く濃い時間だった。
一度描いた絵を、上から絵の具で塗りつぶす。表面が凸凹して、隠しきれない。その事実に気がついた途端、隠すという行為をしている自分が恥ずかしくなる。自分から出てきたものを隠す私。それを恥ずかしく思う私。なかっとことにしたいのに、できない。水をかけて布で拭く。霞の向こうに図形が現れる。「ごめんね。」と思う。あれ、いつの間にか愛着が湧いてる。だけど、こんな絵、誰にも見られたくない。なのにいろんな人が来て、私の絵を見ていく。誰も特に何も言わない。「どう思われているんだろう…」そう思う自分に気づいて、また評価を気にしてることを知る。
なんだか疲れてしまって、その場に横たわって上を見上げる。さっきお絵描きさせてもらった他の参加者のTシャツが揺れている。あの時はもっと自由に描いていたのに。楽しくて楽しくてたまらなかったのに。
温泉に行って、露天風呂の岩の上、1畳ほどのスペースに5センチくらいのお湯が溜まった場所で仰向けになる。気づいたら眠ってしまっていた。ロングスリーパーの私が、数日間睡眠不足になっていたんだもの。誰かが露天風呂に入ってくる、ガタンという戸の開く音で目が覚める。少しスッキリして、また絵を描きに部屋に戻った。
そのあとの私の心境の変化は、ここには描かない。
その代わり、私の作品を見てくれた仲間たちの感想を書き起こしておこうと思う。
たくさんの感想をもらって感じたのは、誰も絵の上手い下手で見る人はいなかったってこと。そして、見る人によって感想って全く違うんだってこと。
感想には、描いた私のいろんな面が投影されているとともに、鑑賞者の心も投影されているんだと体感することができた。だから、もう、怖がらなくていい。ね。
今回は、まだまだ怖さの中で絵を描いた。次に描くときはもっと自由に、心のままに筆を動かせたらいいなと思いつつ、苦しみながら描いたこの時間も、振り返ってみればかけがえのない大切な時間だったなあと思う。
「完成」ということが◎なわけじゃなくて、未完成にも価値(という言葉がベストではない気がするけど)がある。そう思うと、全てが愛おしいこと。なんだってありなんだ。
____________<追記>______________
このnoteを読んでくださった方から、LINEに感想をいただいた。
それで、私が絵を見てくれた仲間たちに最初に言った言葉をここにも書いておこうと思う。録音した音声を書き起こしておきますね。(この部分は最初書くつもりがなかったし、全員に読んでもらわなくていいと思うので、扉を設置するという意味で有料にしておきます。有料級の情報があるわけではないので興味ある方だけ読んでいただけたらと)