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フィンランド留学記#8 オウルで外国人として生きたこと

フィンランドは決して外国人の多い国ではない。そして、ヘルシンキに比べて、地方都市オウルにいる外国人はさらに少ない。いわんや、日本人おや。10カ月間、オウルで生活する間、「わたしはいま、ここでは、外国人なんだ」と自覚させられる場面は多くあった。

外見がとにかく目立つ

フィンランド人の中にも、ダークカラーの髪を持つ人は少なくないけれど、人種的にブロンドヘアーで白い肌を持つ人が多い中、真っ黒な髪でのっぺりとした顔立ち、黄色人種なわたしは、かなり目立っていたと思う。スーパーで、子どもに顔をじっと見つめられたこともしばしば。子どもは素直だから、珍しいものをつい見てしまうよね、と不快に感じなかったけれど、子どもの目から見て自分はきっと異質な存在なんだろうなと思った瞬間だった。

大人はそこまで露骨ではないけれど、たとえば深夜バスに乗ると、わたしの隣はなかなか埋まらない。たしかに、何か話す必要がでてきたときに、言葉が通じるかわからない、「明らかに外国人らしい」わたしよりも、「フィンランド人らしい」乗客の隣に座った方が安心する気持ちはよくわかる。2人用の席を1人で独占できて、のびのび過ごせた反面、さびしいような気もした。

一番悲しかったことは、寮から街に向かうバスに乗っていたとき、おばあさんが荷物をおろすのに手こずっていたので手伝おうとしたら「Älä koske!! (さわらないで)」と言われたこと。わたしが外国人じゃなかったら、こんな風には言われなかったのかなと思うと、とても悲しい気持ちになった。

社会のマジョリティではないことが生む連帯感

見た目において、言語において、文化において、海外で異質な存在になる経験は、自分が生きる社会で「異質」とされている人々と、自分を重ねる想像力をもたらす。それは、外国人であり、LGBTであり、高齢者であるかもしれない。

フィンランドで、LGBTサークルの活動に参加していたときも、北欧の先住民サーミの授業をとっていたときも、それぞれの当事者たちとわたしは、もちろん、置かれた境遇はまったく違うのだけれど、お互いに親しみと共感を持って接していたように思う。社会のマジョリティではないことが生む連帯感。この想像力を、自国に戻って、社会の「マジョリティ」となってからも、大切に抱き続けないといけない。

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