戦時のウクライナ、ひとり旅 3 〜深夜の鉄道駅と爆撃警報〜
僅かな時間のみ過ごしたキーウ旅客駅で覚えているのは、20世紀初頭の美しい建築でもなければ親切な女性駅員でもなく、真夜中の駅に響いた空襲警報になってしまった。
深夜過ぎに鳴り響いた警報。前回のNOTEで「爆撃のターゲットにされるのを避けるため、また電力の使用を抑えるため、キーウ駅の中は薄暗い」と書いた。しかし、駅の印象はさらに暗いものになる。広い地下シェルターに案内された乗客たちとともに、午前2:30発の夜行列車を待つ。
空襲警報が鳴ろうとも、国民のために運行を続ける鉄道のスタッフたちには頭が下がる。
午前2:20。東へ向かう夜行列車がホームに入線する。駅のスタッフが乗客たちを地下シェルターから乗車場所まで案内してくれる。列車はウクライナ西端の都市リヴィウ発だったのだろうかか、4名用の寝台にはすでに3人の乗客が眠っている。私の乗車に気づいたスポーツウェア姿の中年男性が、言葉も通じない私のために下段を開けてくれる。
私の座席についてみると、携帯電話を充電できる電源が無いどころかコンパートメント内全体に電源など一切ない。この頃から、ウクライナ国鉄は東に行けば行くほど古い車両が走っていることに気付かされる。ウクライナという一国の東西の差がここでも垣間見られる。鉄道だけの違いではない。西側は英語を話せる若者も多い印象だが、東側では英語よりはロシア語を話せる人たちが多いようだ。古いニュース記事ではあるが、東部はロシア寄りで、西部は(特に遠い昔にはポーランド占領下、その後はオーストリア帝国の支配下にあったため)ヨーロッパ寄りであると解説されている。
良く眠れたのかどうかも分からないほど疲労を感じていたが、正午が近づく頃、この列車は私の目的地であるハルキウに到着する。キーウにつぐウクライナ第二の都市であるのに、この戦争が始まるまで私はその名前すら知らなかった。ロシアとの国境からわずか30キロという場所のため、開戦後間もなく2か月半ほどの間、ロシア軍に占領された。そのため、ハルキウというその名前を毎日のようにニュースで聞くようになった。また、私が受講していたオランダ語教室の受講生の一人のウクライナ人もこのハルキウ出身だと語ってくれたし、前回のNOTEにも登場した私の町に避難している若いウクライナ人女性マリアもハルキウでの攻撃から逃れてきた。戦争のせいで、知らなかった都市ハルキウを少しだけだが知れた。
また、第二次大戦後すぐにシベリア抑留された日本人兵士たちのうちの約4000人がこのハルキウに連行抑留され、250キロほどの道路の建築に強制されたという。この「日本道路」の建設のため、多くの抑留者が命を落としている。これもここ、ハルキウの悲しい歴史なのだ。
夜行列車を下車したすぐすぐ後、初夏を感じさせる真っ青な空の下に出て、食事が出来そうな駅前の店を探すなど、わずかながらバケーション気分を感じた、のだが。ここ、ハルキウに滞在し、ニュースで何度も見た惨劇の場を自分の目で見ることになる。
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