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リトルラゥム 1


1

ヤナの父が地球政府機関アジア支部のある北京に派遣されていたとき、合格通知が届いた。

未だ十代に入ったばかりの彼女に大学入学は早いようだったが、ますます多忙になる彼にとって手の焼ける娘がやっかいだったのであろう、幼少からの彼女の際立って高い知能への信頼もあり、彼の斡旋は通ったのだった。ヤナにしてもそろそろここでの生活に飽き飽きしていたところだったため、互いの思惑は一致し、月への旅立ちが決まった。

たとえ大都市といわれるところであれ、地上の小さくまとまろうとする性質がヤナの性に合わずにいたのだ。あらゆる分野の学にしても芸にしても、はじめのうちこそわくわくして臨めども結局は理屈通りに収縮するか、惰性に拡大するかしかない、と見えてくるともう意義を見出せなくなってしまう。かといってパーティーやヴァーチャルイベントのような催しをそういつまでも楽しめるはずもなく、彼女は辟易していた。今度行く通称‘月大学’がそれを凌駕する内容を孕む場であるのか、期待するところでもなかったが、多少なりとも地上とは別の空気が吸えるはずだなどと彼女は考えていた。

実際、月大学に関する情報が一般に流れてくることはあまりなかった。ありきたりな入学試験は実施されているようだが、必ずしも点数制で合否が決定されることはないようで、どこからともなく生徒たちは集まった。

数か月後、ヤナはフラットをきれいさっぱり引き払って、彼女のボーイフレンドの家からステーションへと向かった。ヤナの父からはメールが一通、学費の援助に関する短文とともに、「月の環境に早く慣れて健康に気を付けるように」とだけ書かれてあった。ボーイフレンドは車で送り際、遠回りして彼女とよく通ったカフェや都市公園をなごりおしく見せてまわった。その間中ヤナはずっと、とおくに見え隠れする‘ラダー’つまり月への連絡船の道筋を空にぼんやりと見ていた。「連絡くれよ!」と、彼は最後に手をふった。

白銀に輝くラダーは予約客をすべて乗せ、月を目指して噴き上がった。

飽き飽きしていたはずの街が一瞬にして広がり、遠景になると、彼女の胸はきゅん、とわずかに疼いた。初めて乗る船に、重力の感覚の差があるだけでまるでただのエクスプレスみたいね、などと考えていると、外の青のグラデーションが濃くなり、だんだんと漆黒に移っていった。青空は離れゆき、成層圏のやわらかい膜となり、青い膜に包まれる地球をただじっと見下ろしていた。

はっと目を上げると、驚くくらい大きな月が、岩石球のように目前に迫っていた。



ああ、月へ落ちてゆく・・・

彼女は眠りにおちた。

2

 月の都市計画はもう何年も進行と停滞とを繰り返しつつ、着実にその規模は拡大し人口は増していた。月鉱物資源産業の労働者や、地上都市壊滅の被災民がほとんどで、残りは科学者や単にもの好きや、得体の知れないものたちも多く集まっていた。簡易IDはあれども戸籍の管理システムがまだ十分でなかったのもひとつの理由だった。それでも当初の混乱以降不思議と治安が保たれているようであるのは、連絡船のチケットが未だ庶民には遠いものだからかもしれない。


 月の昼側に位置する中央街の大型ショッピングモールのようなシェルター内部に月側のステーションはある。建物内部は重力や空気・湿度を何処も地上環境と近づけてあるため、大きな違和感はなかった。ただ少し埃っぽく、その匂いが奇妙に感じられた。小型トラムに乗りこみ、ヤナの大学本部は基地都市の外れにあった。旧型船舶を寄せ集めて造られたその校舎の、海岸に打ち捨てられた残骸のような様相からはまるで分からない、建造物内へ入ると異質なその雰囲気をヤナは敏感に察知した。理由を探しきれなかった。電光灯の色?壁の上部にはめ込まれているのは見たことない型の電球だった。ピンポン玉くらいの大きさなのに、通路全域がやわらかく明るい。永久光電といわれるものだろうか。講堂のドアを開けると生徒たちが集まっていた。実に様々な人種。みな自身の強い目的に従っている眼差しを持っていた。

 ヤナの月での生活が始まる。学内の一般的なシステムはすべて生徒たち自身により運営されていた。施設設備の管理から需要のある研究学科の設立、経営などまで、各々が得意な分野や経験してみたいところに自由意思により配属された。ヤナは学科を複数かけもち、操縦システムを主に学ぶことにした。しばらくは学校とカプセル寮の往復に日々終わった。

 父はどこまでこの大学の情報を知っていて私を推してくれたのだろう、とヤナは思っていた。日を追うごとに講座の内容は驚くほど高度になり、それを上回るものを明確に求めている他の生徒たちにもまた驚かざるをえなかった。つまり、地上の文明を先越す知識が多くに含まれていたのだ。例えば彼女の学ぶ船舶の分野では、未だ起用されていないはずのエネルギーシステムの数々がすでに仮運用され、次元間スイッチなどがすでにサンプルとして使われてあった。

 大学最年少8歳の少年ジムが管理する非公開ワークショップに参加したとき、半睡眠導入室にて個々の生徒の意識に投射されたのは、どこかの星系の法の書だった。深い緑色の立体シンボルは、アクセスするとそのどこまでも深く幾何学的に整った膨大な情報量に圧倒される。とても覚醒状態の知性ではついてゆけないため感応レベルを高めて生徒たちは情報を得る。その高次の法律は、アクセス側の意識により有機的に変幻することが分かる。生きている法だ。課題はその緑の鏡面にこちらから問いを見出すことに始まり、自らの脳の認知・記憶構造を拡大させながら情報を得、覚醒レベルに統合させる。互いに得たものを参照しあうと同じ法ながら各々違った次元の尺度としてあらわれ、生徒たちは沸きあがった。


そんなふうに日々は過ぎ、尽きることのない知性の集結にほかの生徒同様ヤナも魅了されていった。仲間は増え、彼女の管理担当の操縦デッキには日々かわるがわる人が立ち寄ってはそれぞれの話をこぼしていった。セリヤは国の家族のことや夏にたびたびくる砂嵐のことを心配した。タイチは研究中の銀河モニタリングの経過を熱く語り。ターシャは新しいロシア系の恋人の愚痴を。タオはアレルギーに悩まされて月食の改善を訴え自らの厨房を考案中。・・・若いヤナの日々を充足するすべてがここにはあった。


つづく