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名残


梅雨時の日曜日。

前日の曇りの予報を翻した快晴と

日光を浴びた心地良いそよ風が掠める。

朝食のパンとコーヒーを飲みながら

お気に入りのマグカップをテーブルに置いた。

日陰にある窓際のソファーで

揺れるカーテンをぼんやりと見つめる。


特に予定のない休日の昼下がり、

薄いブランケットを抱いてうたた寝をした。

指先に軽く触れる綿生地の感触が

幼い手で掴んだ母のスカートを思い出させた。

首筋が熱くなる。


浅い眠りの中で蘇る記憶。

母はとても教育熱心な人で

私に厳しくすることが殆どだったが、

不妊治療を受けて初めて産んだ一人娘に

とても優しく温かかった。

結婚当初から出産後までの数年間の日記は

今でも大切に残してある。

子育て経験のなかった母が苦労した様子や、

単身赴任で休日しか会えなかった父と

これからどう生活していくかという不安、

実家の祖父母や旧友との嬉しい出来事、

更にはその日作った晩ご飯まで書かれていた。

母は私を一番に愛してくれた。


その時は何気なく過ごしていた日々が

もう取り戻せないものだと理解していても

時間が経つと共により強く焦がれていった。

二人で横に並んで歯を磨く。

鏡に映る身長差はいつか超えるもので、

ふとした仕草や口調は染まっていって、

大人になったらドライブに連れて行って、

高くてお洒落な店やお酒も一緒に楽しめると

そう信じていた。

そうなったら嬉しいと思っていた。

でも呆気なく壊れた日常はひどく儚かった。


まだ傍に居てほしいと言葉に出来ず、

触れていたいと伝えたくて、

強く握りしめた母の袖が

何度も色褪せては塗り直したあの瞬間に

重なって見えても離れてしまった。


不器用でだらしない私のこの心は

落ちていく斜陽に晒されて静かに包まれた。

母が愛読した本やお揃いの服や家具は

いつまでも捨てられないままでいる。

どんな悲劇も喜劇も

私の心に風穴を刻んで想いが溢れて、

ずっと守ってくれている。

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