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私にとっての仕事とお金(7)

前回からだいぶ時間がたってしまった。小骨が喉に刺さるようにという表現がぴったり当てはまるように、ずっと「続きを書かなければ」と気になっていたが、書けないでいた。

理由としては2つある。

1つはパートナーがワクチン後遺症になったり(幸いにも、ほとんど全快という回復をとげた)、自分が転職したりで、忙しかったからだ。

時間がないというより心を他に配る余裕がなかった。いやなくはなかったが、あえて他には目を向けないようにした。

ただ暗く過ごしていたわけでもなく、わきゃわきゃと暮らしていた。パートナーが倒れて病気になったことで人生を振り返り、「後悔したくない」と思うようになったからだ。人間関係や興味の幅も「今自分が必要と思うこと」だけに絞ろうと思うようになった。そのせいで色々な方面に不義理はしていると思う。SNSもほとんど使わなくなった。

逆に「やってみたい」と昔から思っていたことをやることにした。だって明日死ぬかもしれないから。

49歳で運転免許も取ったし、28年間勤めた会社を離れ、転職することもできた。50歳で内定を1カ月半で4つもらえた。あとは念願のイギリス旅行とピアスを空けることが残っているだけだ。


「50歳の転職は大変ですよ」と言われたにも関わらず、するするとうまくいったのは、ターゲットを明確に絞り、待遇について高望みしなかったことに加え、IT業界の人手不足が幸いしたのだと思う。でもおかげで自分の市場価値がわかり、「まあ、しばらくはまだいけそうだな」という自信は持てた。

続きを書けないでいた2つ目の理由は、前回の内容で自分のキャリアの振り返りを書き尽くしてしまった感じがしたからだ。

2005年に着任して7~8年間在籍した客先がターニングポイントで、そこからはポイント地点を曲がった状態から、ずるずると今に至るだけなのだ。
そして、たぶんあまりにそれまでの仕事に関わった時間(1995年から2004年までの20〜30代)が辛すぎて、その間のことを書いたことで、自分自身を慰められたからだ。

2014年までの仕事は、最後の1年に責任が重くなり病気にはなったが、新卒から2004年まで感じていた焦燥感からは解放されていた。
新卒からずっと「あの子はダメな子」と後ろ指をさされていた気がしたし、実際にそうあつかわれていた。

それがようやく、自分がいることは無駄ではないのだ、自分は役立たずじゃないんだと、思えたのである。

それまでは私は何者かになろうとしていた。

何者かになる必要はないと気づいた、自分の役割をまっとうすればいいのだということに気づいたのが、前回書いた仕事だったのだ。

わたしはプログラマーではない、プロジェクト管理や調整をする人間だったんだと言うことに、ようやく気付いたからである。
当時、会社は「プログラマーやシステムエンジニアとして優秀でなければリーダーにはしない」という不文律の文化を持っていた。それを見聞きしたり、感じたりするたびに、「本当にそうだろうか」と思って内心悔しく感じることもあった。でもダメプログラマーの私は声を上げることもしなかったし、そもそも自信もなかった。

ところが、顧客から「あの人をリーダーにしてくれ」と逆に言われるということが起きたのである。会社はしぶしぶ私を責任者とした。所詮、中堅SIerで顧客の意向に対抗できる人なんて、そうそういなかった。

今思えば、何度か、いくつかの客先企業で顧客に救われている。「Tさんだったら来てほしい」と、数人には言われていると思う。

病んで職場を離れて、6カ月休職したのちに、別の客先に常駐した。今度の客先はあるサービスの業界一位の会社だった。それまでも大企業ばかりではあったが、さすがに圧倒的な業界一位は初めてで、色々と勉強になった。書けないのが残念なぐらい、様々な仕事を経験した。

リーダー業務はちょっと疲れたから勘弁だと思っていたが、結局、チーム管理やプロジェクト管理をやることになった。ただ病気になった反省を踏まえて、とにかく無理をせず、悩みがあればすぐに声を上げるようになった。幸い、仲間にも恵まれ、何かあっても必ず誰かに相談はできた。仕事内容としても、システム最後の工程である第三者検証を通して、システムの仕様や設計を外側から把握する楽しさも知った。

2022年に離職するまで、その客先企業に常駐した。
その時々で悩みもあったが、総じてとても楽しい8年間だった。
この客先企業で前職を終えられたのは私のキャリアで幸せなことだった。



自分の仕事について書くのをやめていた理由が、もう1つある。

この先の話が、ただの自慢話になるのが嫌だったらからだ。

人は10年、20年も仕事を続けていれば何かは覚える。成長もする。誰でも、どこかで存在感を発揮するようになると思う。ここで書いたことなんて、ほんとうにありきたりのことにすぎない。

なぜなら仕事は無数の枝葉から構成されている。さまざまな役割の人が必要で、たまたま私は「ああ、これが自分の役割なんだな」と遅ればせながら気づいただけなのだ。

システム開発は理系の人の仕事、数学が得意な人の仕事と思っていたが、大間違いだった。文章をわかりやすく書くことや、人の気持ちを汲むことや、他人と調整して落としどころをはかること、計画を立てることが得意な私にも、それなりの役目があっただけなのである。

おかしなことに小さい頃から得意だねと言われたことしか、今も役にたっていない。

それほど学歴が高くはないが、小さい頃に「頭がいいね」と何度か言われたことがある。同級生と会ったときに、名門大学を出て、社会においても私より圧倒的に素晴らしい業績を果たしている人に「麻子ちゃんは昔から頭が良かったよね」と言われた。こんな大企業に雇われ使われるだけの末端の人間に、なんの冗談だろうと思ってしまう。

ただ転職の時にいくつかの会社で「地頭が良い方なので」と言われた。この年で地頭とか言われるとは思わなかった。努力して、努力して、歯を食いしばって勝ち得たことより、6歳ぐらいで褒められたことがまさか役に立つとは。うれしいというより皮肉なものだと思った。

でもきっと、そんなものなのだと思う。誰にでも自然と空気のことのようにできることがある。意外と他人はそれが欲しいのだ。

1つのプロジェクトや仕事には無数の役割がある。「これしかできない」「これはできない」なんて思うことがおこがましくて、何となく自分に向いている仕事が回ってくることに誠実に答えていけばいいのだということに、40代でようやく気付いたのだった。

非常に傲慢な若者だったわたしは、この気付きからだいぶ変わったと思う。自分なんて大した人間じゃない。組織の歯車で結構と思っている。

私のキャリアは3つのことが幸いしている。1つは先ほど書いたとおり、自分の得意分野に気づいたこと。
2つ目は長く同じ会社に勤めたこと。
そして3つ目はそれがIT業界であったことだ。

2つ目と3つ目について、私は好きで選んだわけではない。苦し紛れの選択だった。最初にパソコンに触れた喜びや楽しさは、プログラマーとして苦しい10年が始まった1~2年目にとっくに霧散していた。ではなぜ続けていたのか。それについて次は書いてみよう。恐らく、それが一番私が言いたいことだから。





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