文字を持たなかった昭和 二百六十(ななとこいのずし)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)が、主婦としてあるいは親として過ごしたお正月の様子として、前項では七草粥について書いた。

 この地域で1月7日に作られ食されていた粥を便宜上「七草粥」と述べたが、一般的な七草粥とは異なる部分(意味合い)も多い。いや、むしろ「別物」と言っていい。

 この地域では当時――おそらくそれ以前の長い間――1月7日は「七草祝い」の日だった。七草祝いは、子供が七つにまで成長したお祝いだ。この日、新年を迎え数えで七つになった子供は、新調したり親から譲られたりした晴れ着を着せられる。親に連れられてまず氏神様にお詣りし、続いて近隣の7軒のお宅を訪問し、七つになったことを報告するのだ。

 訪問を受けたお宅はお祝い代わりのお年玉を渡す。そして――ここが重要なのだが――子供が風呂敷に包んで持参した蓋つきの重箱に、それぞれの家庭で作った七草粥をお碗に一杯分入れてやるのだ。これは「七草粥」で書いたように、粥というより濃い目の雑炊で、かつ冷めていればもっともったりしたから、重箱に入れるのも難しくなかったし、1軒1椀ずつの「粥」は7軒回っても最初に置かれた場所で安定していた。

 じつはこの「粥」は「ななとこいのずし」と呼ばれていた。漢字を当てれば「七所の雑炊(ななところのぞうすい)」だろう。七歳のお正月に、近所の7か所(軒)を回って、成長の報告をしお祝いする。それが、ミヨ子たちの集落を含む地域の風習だった。

 「ずし」を、子供の二三四(わたし)は「寿司」だと長らく思い込んでいた。日本語には「2音が続くと濁る」場合があり、「すし」が「ずし」になったのだろうと――例:焼き+魚→やきざかな。それを連濁と呼ぶことは、ずいぶんあとに知った――。しかし、鹿児島弁の特徴である「なんでも短くする」法則に則り、「雑炊」が変じたものだと気づいたのも、連濁の法則を知った頃かもしれない。

 さて、数えの七つと言えば6歳になる年の新年だ。5歳だった二三四(わたし)は、この日のことをかなりはっきり覚えている。袖や裾の長さを調節した晴れ着を着て、おかっぱ頭には不釣り合いな髪飾りをつけ、おそらく生まれて初めての草履を履いた。晴れ着は新調したと思う。家の敷地には戦争未亡人の奥さんが和裁で生計を立てており、着物の誂えも袖や裾の調節もここでやってもらった〈138〉。

 氏神様は隣の集落の丘の上にある八幡宮で、何十段もの石段を草履で上った。ここへは父親が連れていったと思う。近所の7軒への報告に同行したのは両親のどちらだったか、あるいは祖母だったかは思い出せない。ふだんから行き来のあるお宅ばかりだが、重箱を持参するので子供一人で行ったはずはない。

 7軒の最初は一族の本家のお宅だった。集落には親族の家が多かったから、残りの6軒も親族を回ったと思う。母の実家も同じ集落にあり、そもそも遠戚で苗字も同じだった。

 あのときの7軒分の「ずし」が重箱に入っていた光景も忘れられない。同じような食材で、同じような作り方のはずなのに、色あいや濃度はそれぞれ異なり、家ごとの味があった。そしてたくさんの家――社会と言い換えてもいい――からお祝いしてもらったことを実感した。もっとも、電子レンジなどまだない時代――昭和40年代前半、1970年より前――、温め直すのも大変だったはずだし、そもそも冷えて粘りが強くなった「ずし」を取り出すのから手間だったはずだが、その辺は記憶にない。

 「七草祝い」は七五三をまとめたようなお祝いだ。当時集落では五つや三つのお祝いはなかった。あるいは、同じ町でも商業地域では違う祝い方をしていたのかもしれない。七草祝いに誂えてもらった晴れ着は、袖や裾の長さを調節しながら次やその次の年の正月にも着たが、草履だけはどんどん足に合わなくなっていき、そのうちまだ着られる晴れ着も着なくなった。

〈138〉関西出身で、夫の死後和裁で子供二人を育て上げたこの奥さんについての思い出も多い。いつか書きたい。 

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