最近のミヨ子さん(ビデオ通話④)

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 たまに、母の近況をメモ代わりに書いているが、前回に続くビデオ通話の様子(例によって義姉のスマホを通しての)を記しておきたい。

 義姉ともひとしきり会話したあと母に代わってもらう。この日の母はわりと着古したブラウスだった。わたしも見覚えがあるから、取り壊す前の実家から持ってきたものかもしれない。

 今回の主な話題は帰省の予告である。帰省は盆正月を避けて秋に1回、というのがなんとなく恒例になっていた。今年は2月に亡父の年忌で帰省したばかりだが、兄や義姉から、認知機能の低下が原因と思われる母に関する近況報告が増え、ちゃんと会話できるうちにまめに会っておいたほうがいいだろうと家人とも話し合い、急遽決めたものだ。

「今度帰るよ」
とわたし。ちょっとピンと来てない感じ。変な言い方だが、ぱっと表情が変わりうれしそう、という変化が見えない。じれたわたしが具体的な日にちを言うと
「そう、〇日。お兄ちゃん(わたしの兄)たちは知ってるの?」
「もう伝えてあるよ、お義姉さんにも」
「そうだね、元気なうちに会っておいたほうがいいかもね」

「旅館にも連れていくから。島のすみちゃんも来てくれるって」
 「島のすみちゃん」とは母のいちばん下の妹で、県内の離島に嫁いでもう40年くらいになる〈178〉。出産の里帰りや、子供たちが小さい頃の夏休みなどは実家に帰っていたので、母の実家と同じ集落に住むわたしたちもよく会い、たまにわたしたちの家に泊まることもあったが、年を追うにつれ滅多に会わなくなり、いまやみんな高齢者かその域に差し掛かっている。

 母と20歳も違うすみちゃんにとって母はお母さんのような存在で、母の日には毎年お花を届けてくれてもいる。

 すみちゃんとは母の近況についてじっくり語り合いたい、と思いながらも腰が上がらないままだったが、今回の帰省に合わせて島から出てきてもらえないか、と前もって相談してあったのだ。まだ「現役」で働いているすみちゃんは、鹿児島市内でないとできない用事と重ねる形で、週末に1泊だけ来てくれることになっている。

「ああ、すみちゃん。来られるかしらね」
 母はお金の心配を口にした。20代前半で離島に嫁いだすみちゃんが大島紬を織ったりして家計を支え続けたことを、母は覚えているようだ。その方向の話――どんな仕事をして、どんなに苦労をしたか――に進みそうになったので、わたしは軌道修正する。
「鹿児島に用事もあるんだって」

 われわれ(?)一定年代より上の鹿児島県人が「鹿児島」というとき、それは「鹿児島市(内)」を指すのだ。用事の中身は詳しく伝えない。
「もう何年も会ってないでしょう?」とわたし。
「んーー、そりゃもう。いったいいつ会ったかねぇ」
「用事が終わったら『宿』に来てくれるって。いっしょにご飯食べて、ゆっくりお話ししようね」

 すみちゃんもわたしも、母といっしょに過ごせるのは今回が最後かもしれないと思っている。とくに離島に住むすみちゃんはそうだろう。すわ、というときも駆け付けられるとは限らない。以前すみちゃんが大けがをしたときは、ドクターヘリで「鹿児島」の病院へ運ばれたのだ。そういうこともあって、すみちゃんには少し無理をしてもらった。
「だから、元気にしててね。お母さんは行くだけでいいから」

 年配の人と泊りがけで出かけるのは、じつはけっこう大変だ。バリアフリー、車椅子の有無や食事内容などなど、宿泊先と事前に確認することがたくさんあるし、着いてからもつきっきりになる。広い快適なお風呂もゆっくり入ってはいられない。

「お前がどんないいところに連れて行っても、母ちゃんは覚えてないぞ」
と兄は言う。それでも、みんなの思い出づくりのためにひと肌脱ぐ気持ちだ。覚えてなくても、母がその瞬間「うれしい、楽しい、おいしい」と思ってくれて、その表情がみんなの中に残ればそれでいいじゃないか。

〈178〉佐賀での工場勤めを終えて帰ってきた母と、幼かったすみちゃんが初めて会ったシーンは「二十三(きれいな姉ちゃん)」に書いた。


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