文字を持たなかった昭和 百七十一(敬老の日)

 秋の運動会の話題を続けてしまった。しかも、noteを始めた本来の目的である「母ミヨ子(たちのやもっと上の世代)の昭和を生きた記録」というより、自分のエピソードが中心になった。それもミヨ子にとっての家族の記録ではあるのだが。

 さて、令和4(2022)年の敬老の日は明日9月19日(月)だ。敬老の日にちなみ、昭和40~50年代のミヨ子(たち)の敬老の日の過ごし方を書いておきたい。

 本項を書くにあたり敬老の日の由来を確認してみた。かいつまんで言えば、戦後間もなく一地方で始まった「年寄りの日」の試みが格上げされていく形で国の祝日になったようだ。他の多くの祝日のように明確な歴史的・習俗的な経緯や背景があるわけではないこと、一方で、敬老の精神自体は誰もが肯定したためだろう、国民にすんなり受け入れられ祝日として定着していることは興味深い。

 制定当初9月15日だった敬老の日は、「ハッピーマンデー」という愚策――だとわたしは思っている――により9月の第三月曜日に変更され、毎年違う日にちになった。

 シルバーウィークという言い方もなんとなく定着した(商業的にさせられた)感もあるが、こちらは本来の9月15日と「さまよえる」敬老の日を両方含む形で、お年寄りを敬う期間として設けられた――らしい。春や秋の交通安全週間じゃあるまいし、敬老は期間を決めて行動するものでもなかろう。

 その敬老の日がしっかり9月15日だった頃。ミヨ子たちが暮らす町でも、高齢者にお祝いを贈ったり、お祝いの会を催したりが行われていた。

 全人口8,000人足らずの小さい町では、町長さん名でお年寄りに記念品が配付された。一方、集落単位で言えば、集会所である「公民館」〈116〉に集落の婦人会員、すなわち主婦全員(!)が集まって、お年寄りのための祝賀会を用意した。町(ちょう)の記念品が先か、住民どうしでも何かお祝いを、という話になったのが先かはわからないが。

 祝賀会は、最初は手作りの料理で始まったのだと思う。が、準備も盛り付けも配膳も大変なので、ほどなく町内の商業地区にある仕出し屋さんから、ちょっと豪華な仕出し弁当を取るようになった。対象となるお年寄りの人数は確定しているので、当日は席――と言っても長机と座布団――とお茶だけ用意しておけばよく、来られない人には弁当を届けに行けばよかった。

 それら費用の原資が何かは、子供だった二三四(わたし)に知る由もなかったが、集落や婦人会では少額ながら毎月会費を集めていたし、町からもなにがしかの給付金があったのかもしれない。

 祝賀会は特別なプログラムがあるわけではない。「分館長」と呼ばれる集落の代表がお祝いの挨拶をし、あとはしゃべりながら食べたり飲んだり。ありていに言えば、ふだんからの茶飲み仲間が、趣旨と場所を変えて集まった、というふうだった。

 婦人会の有志が浴衣姿で踊りを披露することもあったが、目立つのが得意でないミヨ子は、できるだけ裏方に回るようにしていた。小さな集落の婦人会でも、会長以外にボス風を吹かせる(?)主婦がいて、指図を受けるのはあまりおもしろくなかったが、場の雰囲気や集落の人間関係をこじらせてもしかたないので、黙って言われるとおりに動くのが常だった。

 まして婦人会長から正式に
「ミヨちゃん、今年は踊りに回って」
と頼まれれば、「あまり上手じゃないけど…」とやんわり拒否してはみるものの、引き受けないという選択はなかった。

 特筆すべきは、当時の「お年寄り」の対象とその比率である。70歳がひとつの目安だったが、もともと100人もいない集落で70歳を超えるお年寄りは数えるほどだった。

 80歳を超えたら
「まー、ご長命ですね!」
と誰もが目を丸くした時代。介護のための施設もサービスもなく、70歳半ばくらいには自宅で介護を受けるのが普通だったから、敬老の日の祝賀会に参加する元気なお年寄りはそう多くなかった。

〈116〉「公民館」については、「百六十六(十五夜の相撲大会)」で触れた。

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