文字を持たなかった昭和293 スイカ栽培(2)なぜスイカ?

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 昭和40年代前半からミヨ子たちが取り組んだスイカ栽培について書き始めたが、そもそもなぜスイカの栽培を始めたのか。まだ幼稚園に通い始めたくらいの二三四(わたし)には、始めたきっかけについての記憶の手がかりはない。物心ついたころにはスイカを作るようになっていた、としか言えない。

 考えられるのは、「ミカンからポンカンへ(1)」でも触れたように、社会、とくに消費スタイルの変化に伴い、農家の側も「より売れる作物や果物」へ作るものをシフトしていったから。ただし、個々の農家が主体的に市場動向を研究したからではなく、農協や自治体などの指導、その上の政策の変化を受けて、と考えるのが妥当だろう。

 ひらたく言えば、農協などが「これからの時代スイカですよ」と提案し、「そうか」と思った農家がその技術的な指導を受けた。もちろん、資材や苗などの購入とセットで。

 ミヨ子の夫、つまり二三四の父である二夫(つぎお)は、そこそこの田畑を持つ農家の跡継ぎとして、経営の拡大を考えていただろう。拡大とは規模を広げることとは限らず、多角化による収入増も含まれる。それまで麦や野菜を植えていた畑で、より高い収益が得られるなら挑戦したくなるのも自然だ。昭和3年生まれの二夫は働き盛り、地域の農業従事者の中で頼られる若手でもあった。農協の役員とも懇意だったから、「やってみないか」と言われれば、「ぜひやりたい」と答えていただろう。

 当然ながら、そこにパートナーである妻、ミヨ子への「相談」というものはない。おそらく
「こんどスイカの促成栽培を始めるから」
と一言あるだけだった。

 そうして、ミヨ子たちのスイカつくりは始まった。

 当時の経緯について93歳になった〈148〉ミヨ子に尋ねてもいいのだが、最近は記憶がすっかり曖昧になってしまっている。古い話だから覚えているかもと思っても、記憶には濃淡があるらしいことと、体や心の状態によって記憶のつながり方が毎回違うようだ。折りをみて――と言っても直接話す機会は限られる――話を振ってみたいと思い、二三四の「今後確認したいこと」がまたひとつ増える。

〈148〉「ひと休み(戦前の出生届)」などで何回か触れているように、ミヨ子は正確には昭和4年生まれなので、戸籍年齢より1歳多い。

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