文字を持たなかった昭和292 スイカ栽培(1)「山大」

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。数回寄り道してしまったが、ミヨ子たちが日々勤しんだ農業の話に戻ろう。

 時は昭和45年、1970年。「昭和」を生きてきた人や昭和の歴史に関心がある人なら、この年に開催された特大の催し物――当時はイベントとは言わなかった――を明確に思い出せるだろう。そう、大阪で開かれた万国博覧会(大阪万博、または万博)だ。

 あいにく二三四(わたし)はまだ小さかったし、鹿児島から大阪まで子連れで観光に行くなんて、ミヨ子や夫の二夫(つぎお。父)は考えもしなかった。集落や地域、いや町内の家庭のほとんどはそうだった。百数十人いた同学年で、万博を見に行った子供がいただろうか。

 二夫はある形で万博に「参加」する。そのことについては項を改めるとして、地域の大勢の大人たちとともに大阪に行った。そのついでに、大阪の青果市場の視察もした。そして、帰宅後視察先での様子を家族に語ってこう言った。
「大阪の市場で、『山大』のスイカは品質がいい、と高値で取引されている」

 『山大』は、ミヨ子たちが暮らす地域――つまり二三四の郷里――の地名「大里」にちなみ、ひらがなの「へ」のような山型の下に「大」の文字を置いたロゴの呼び名だった。山型の「へ」は里を意味する、ということだろう。梱包の箱や送り状などにそのロゴが使われていたため、市場関係者も産地の略称として『山大』と呼んでいたと思われる。万博の頃にはスイカ栽培は地域の農家に定着し、一定以上の技術水準に達していたと思われる。

 その話を聞いて、想像すらできない大都会の、大きな市場でもてはやされるスイカの姿を思い浮かべ、ミヨ子も子供たちも誇らしく思ったものだ。

 本項からは、ミヨ子たちが取り組んだそのスイカの栽培と関連するエピソードについて、しばらく綴ってみたい。


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