文字を持たなかった昭和 二百六(脱穀)

 昭和の後半の鹿児島の農村。母ミヨ子の半生を中心に、農家だったわが家について書いている。

 秋の収穫の代表である稲の獲り入れについては、稲刈やその機械化まで書いた〈128〉。が、刈り取った稲は、もちろん稲架に干して終わりではない。

 稲架に架け十分日に干して乾燥させた稲は、稲架から下ろして脱穀しなければならない。昭和の前半、少なくとも戦後直後ぐらいまでは、「千歯こき」という農具を使っていたはずだ。「千歯」という名のとおり、木製の土台から金属の長い「歯」が櫛のように出ており、そこに稲の穂先を引っ掛けて手前に引く(こく)ことによって、籾と稲の茎(藁)を分離するのだ。もちろん人力による作業である。

 子供だった二三四(わたし)は、「千歯こき」を使う脱穀はおぼろにしか記憶にないが、ミヨ子が嫁いだ昭和29年頃はまだ人力による脱穀作業だったはずだ。わが家にいろいろな農機具が入ってくるのは、わたしが物心ついて以降だから。

 脱穀のあとの稲は、おおざっぱに言えば籾と藁に別れる。

 外した籾もそのまま俵などに詰めるわけではない。脱穀しただけでは藁の屑や実の入りが悪い籾などもいっしょくたになっているからだ。それらを選り分けるのには、いわゆる遠心分離の理論を使った。

 と言っても、ここでも機械を使うわけではない。「唐箕(とうみ)」と呼ぶ大型の木製の箱のような道具を使う。「唐箕」は、藁屑なども入った籾を上の漏斗状の入口から入れ、内部に風を送り込むことで、重さによって実の入った籾とそうでない籾、ゴミなどを振り分け、実の入った籾だけを下部から取り出す仕組みだ。

 竹などで編んだ「箕(み)」は、箕本体を動かして箕の中の穀物や豆を風で煽ることで、作物の実とゴミ類をふるい分ける。その作業をより効率よくできるよう工夫されたのが「唐箕」で、その名のとおり古代の中国で開発され日本に導入、普及したものらしい。木製の「唐箕」は高さが大人の背丈くらいあり、納屋の中で存在感を放っていた。

 「唐箕」でふりわけた籾は、藁で編んだ叺(かます)と呼ばれる袋に詰めていく。大人たちはみな「俵(ひょう)」単位で叺を数えていたから、叺一袋が一俵分だったのだろう。子供だった二三四は何の疑問もなく「叺=俵(たわら)」だと思い込んでいたのに、テレビの時代劇で江戸時代のお百姓が年貢として取り立てられる米が、藁でできた円筒形の袋(らしきもの)に入っているのを見て、不思議な気分がした。

 一俵分の叺はとても重く、これを一人で動かせるのは夫の二夫ぐらいだった。たまに、ミヨ子が手伝うこともあったが手古摺っているふうだった。

 籾を詰めた叺は、1年分の自家用と来年の種籾を除いて、農協に「出した」。穀物の獲り入れとしての稲刈は、ここでひとまずの区切りがついた。

〈128〉「百八十二(稲刈り、その一)」「百八十三(稲刈り、その二)」「百八十四(稲刈り、その三)」「百八十五(稲刈り、その四)」「百八十六(稲刈り、その五)」「百八十七(稲刈り、おまけ)」「百八十八(稲刈りの機械化)


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