文字を持たなかった昭和 五十六(二回目のおめでた)

 ミヨ子(後のわたしの母)が、最初の子の死産を経ながら開墾したミカン山にはミカンの苗木が植えらていった。しっかりした木に育てるため、幹に栄養がいくよう、最初の数年間実をできるだけ成らせないようにしたことだろう。

 ミカンの木がしっかり育ち収穫のメドが立ってきた昭和34(1959)年〈61〉の夏、ミヨ子は再び体調の変化を感じていた。「また赤ちゃんができたかもしれない――」。慎重を期して、町の北側、隣の市との境にあるH産婦人科で診てもらった。やはりおめでただった。母子手帳をもらい、定期検診も欠かさず通った。

 稲刈りで忙しい秋でも、夫の二夫(つぎお)はもちろん、舅の吉太郎や姑のハルもミヨ子に重いものを持たせることはなかった。とはいえ、安静第一に過ごしていたわけでもなく、まだ井戸から手動ポンプで水を汲み上げて手作業で行っていた洗濯をはじめ、家事はミヨ子が一手に引き受けていた。

 それでもだんだん大きくなるお腹の子が、今度こそ無事に生まれるように気を付けた。結婚から5年が経ち、子供がいないのは不自然と噂されかねない時期でもあった。

〈61〉昭和29(1944)年の結婚前後から開墾を始め、開墾と並行して苗木を植えたのなら、昭和34年にはミカンの収穫が始まっていたかもしれない。

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