文字を持たなかった昭和518 酷使してきた体(30)そして、いま

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 このところは「酷使してきた体」というテーマで、ミヨ子の病歴や体調の変化などについて記してきたが、ミヨ子の健康状態の変化を簡単にまとめ、現状を確認することでこのテーマの区切りとしたい。

 若い頃から――5人きょうだいの長女として子供の頃からと言っていいかもしれない――働きづめで、ことに同じ集落のけっこう大きな農家の一人息子だった二夫(つぎお。父)に嫁いでからは、主婦としても働き手としても期待され、それに応え続けてきた人生。

 娘時代は紡績工場で結核に罹った。嫁いでから最初の子を死産で失ったが、その前後を含め山や田畑で働き続けた。働き盛りの頃は大病というほどの病気はなかったが、ときどき鼻血を出したし、始終肩こりなどの痛みがあった。ハウスキュウリの事業を始めてからは、ほどなく農薬アレルギーになった。

 働き盛りを過ぎると、心身にたまっていたであろう無理が表に出てきた。子宮がん、ねじれ腸、胆石、そして乳がん…。老年期に入ってから大きな手術を2回したことになる。自転車で転び右手がうまく使えなくなるという事故もあった。丈夫でなかった歯は、早くに総入れ歯にした。

 目立った持病がなかったことを思えば、健康状態がとくに悪かったわけではない、と言えるのかもしれない。ただ、経済的に厳しい状態の中、ことに嫁という立場から、こまめに病院で診療を受けられる生活ではなかったことも確かだ。<223>

 10年ほど前から息子家族と同居し、93歳(正確にはすでに94歳)になったミヨ子<224>。膝の痛みは80代から続いており、一時期は歩けないほど痛んだ。少し改善したが歩くのも基本的には室内だ。腰も曲がっていて痛い。農作業で始終重いものを担いでいたためだろう、背は丸くなり、上半身は歪に曲がっている。背骨には圧迫骨折のあとがあり、医師から「若いころに重い物を持っていましたか」と訊かれたほどだ。 

 しかしいまは、いちおう自分の足で歩き、食べたものを「おいしい」と感じられる生活を送っている。ここ数年認知機能低下が進んでいるのは気がかりだが、単発の会話なら成立する。

 心身をすり減らして、家族や共同体を優先して生きてきて行き着いた先。おだやかに、「おいしく」日々を過ごしてほしい、その時間が少しでも長く続いて、長年の苦労が報われてほしいと、娘として二三四(わたし)は願うばかりだ。

<223>ここに書いた病気などのひとつひとつは、「酷使してきた体」の各項以外に、以前のnoteの記事の中で折りに触れて述べている。
<224>戸籍年齢と実年齢の違いについては「四(誕生)」「ひと休み(戦前の出生届)」に詳述。

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