文字を持たなかった昭和 帰省余話26~父のウィスキー

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは、そのミヨ子さんに会うべく先月帰省した折りのできごとを「帰省余話」として書いてきた。帰省の大事な目的のひとつは二夫さん(つぎお。父)の十三回忌だったが、関連して思い出したことをメモしておく。

 自分は鹿児島出身だと言うと、決まって「お酒が強そうですね」「やはり焼酎党ですか」と訊かれるが、前者は「好きなだけで強いわけではない」し、後者は当てはまらない。ほかに選択肢がなければ焼酎も飲むが、わたしはウィスキー党である。その日も、手元のウィスキーが切れたので、近くのカクヤスのウィスキーの棚の前で次に飲むべきウィスキーを眺めていた。ふだんに飲むものだから高いものは買わない。できれば1000円前後、でもできれば国産にしたい、と悩みながら。

 ジャパニーズ・ウィスキーが世界の五大ウィスキーの一角に入ったと寿がれて久しいが、海外からの注目が集まるのに比例して価格も上がってきた。特別な日の楽しみのために秘かに買っていたニッカのあるブランドは、もう手が出ない、というよりそもそも出回らなくなった。地方のウィスキーもだんだん値段が上がっている。それでもふだんに飲めるくらいのブランドはまだ残ってはいるのだ。

 つらつら棚を眺めていて、一角にキリンシーグラムの「富士山麓」を見つけた。これは戦略を変えた感がある。ブレンドも変えたのだろうがラベルが明らかに高級路線になった。もちろん価格も。

 さて、父の話である。

 以前ちらっと書いたが、わたしはどちらかというとお父さん子だった。しょっちゅういたずらをしては怒られる和明さん(兄)と違って聞き分けがよく、本が好きで田舎の学校の中では勉強がよくできた。運動神経も悪くない一方、田畑の手伝いや家事などもきちんとやる「おりこうさん」でもあった。父にすれば自慢の娘だったはずだ。

 が、よくある話で、思春期頃から父親を疎ましく思うようになった。最初は些細なことだったように思うが、家業である農業の経営に専念せず、農協や地域の役回りにかけずり回り、ミヨ子さんにばかり苦労をかける――ように見えた――姿に、だんだん反感を覚えるようになった。おそらく時代の流れの影響もあったのだろうが、子供の目にも家計の苦しさが実感できるようになり、父への拒否感は増していった。

 そうして、半ばけんか別れするようにして、わたしは県外の大学へ進学した。大学進学そのものを渋る両親を「働きながら通うから、仕送りしてくれなくていい」と突き放した。その後も郷里に帰るという選択をせず上京し、その後も海外で働くなど、両親が望むような平穏な人生とは対極の生き方を選んだ。

 まだ在学中だったと思うが、自分の性格を分析していて父親と似ていること、とくに嫌いな面がそっくりなことに気づいて愕然とした。父はよけいに疎ましい存在になった。在学中も社会人になってからも、いわゆる盆正月は帰省しそれなりの会話もしていたが、父とはうまく打ち解けられずにいた。

 30歳を過ぎた頃だろうか。つきあいで飲む機会が増え、たまに寝酒もするようになっていたわたしは、帰省先でも飲もうと考えた。ペーパードライバーのわたしが空港バスで最寄りのバス停まで帰ると、その近くまで父が迎えにきてくれた。帰り道酒屋で車を停めてもらい、自分用のウィスキーを買った。それが「富士山麓」だった。当時は1000円前後だったと思う。

 食卓で父にもウィスキーを勧めた。ラベルをしみじみと眺めたあと、薄めの水割りを少し飲み「ふむ」とは言ったが、2杯目は愛飲している地元の焼酎「七夕」を、ふだんどおりのお湯割りにして飲んだ。最初は
「お前はウィスキーを飲むのか」
と目を丸くしていた父だったが、お酒が入ると饒舌になる点は父娘似ていたようで、けっこう会話が弾んだ。お酒はまさに潤滑油になってくれた。

 帰省休暇を終え、手荷物を減らすために当座不要な物やかさばるお土産は宅配便にした。その中にウィスキーの飲み残しも入れて、母に「送っておいて」と頼んだ。東京に届いた宅急便には、家で穫れた野菜などが新聞紙にくるまれて隙間に詰めてあった。

 その次の帰省のときも、バス停からの道すがらウィスキーを買って帰った。飲み残しは「次にまた飲むから」と置いていった。そうして実家にウィスキーを「キープ」するようになった。帰省中に「キープ」がなくなったら、父の車で買い足し行った。

 その頃から、父は焼酎のお湯割り、わたしはウィスキーのグラスをそれぞれ重ねるながらいろいろな話をするようになった。地域の役員を長年務めてきた父は顔が広く、いろんなことを知っていたし、もともと勉強が好きで歴史にも興味があった。わたしが仕事を通じて知った海外事情や「いま」の東京の話、国内・国際情勢への自分なりの分析などを思いつくままに語ると、父は「ほう」と相槌を打ちながら興味深く聴き、自分の意見を述べた。わたしが余暇や休暇で訪れた史跡の話をすると、さらにうれしそうに聴いて、「そう言えば」と歴史上のエピソードや関連するドラマの感想などを話してくれた。

 あるとき「キープ」しておいたウィスキーが空になった。その次の帰省でまた父に酒屋へ寄ってもらおうとしたら「家にある」と言う。実家の床の間には封を切っていない「富士山麓」が置いてあった。

 そうやって、帰省のたびに、それぞれ違うお酒を傾けながら――お酒の力を借りて――さまざまな話をするごとに、父とわたしの間の壁は低く薄くなっていった。わたしが勝手に作っていた壁をお酒が溶かしてくれた、とも言える。次第に共通の話題が増え、もともと手紙を書くのが好きなわたしは、実家宛の手紙に最近行った史跡のパンフレットを入れて感想を添えたりするようにもなった。それを受け取った父からは、電話や手紙で感想が届いた。いつの間にか、帰省時に父とお酒を酌み交わすことは(正確には「手酌」だが)、年中行事に近い楽しみになっていた。

 父からは、若い頃の話、とくに志願して入った特攻隊での経験など、もっとたくさんの話を聴くつもりでいた。父はいつも元気で、みんなが「百歳まで生きる」と言っていた。わたしも、お酒を酌み交わしながらの時間はもっともっと続くと思っていた。ところが父は82歳の冬、老人性の肺炎であっけなくこの世を去った。近所の人たちは
「その日の夕方まで、いつもどおりに犬を散歩させていたのに」
と驚いた。

 カクヤスの棚に並ぶ「富士山麓」に、長い時間のたくさんの思い出が甦った。父の話を聴くことはもうかなわない。それでも父の晩年、お酒を媒介にして楽しい時間を共有できたことはかけがえのない宝物である。なにより、父と心を通わせられるようになったことは。

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