文字を持たなかった昭和470 困難な時代(29)受験勉強

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり、少しでも現金収入を得るべく、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだこと、家庭内の雰囲気は重く気づまりだったことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 そうこうするうち娘の二三四(わたし)は高三になり、卒業後の具体的な進路を考える時期を迎えた。二夫(つぎお。父)もミヨ子も、娘には家から通える範囲での就職を望んでいたから、二三四は公務員試験も受けながら大学受験の準備も進めていた。二三四の本心を一言で言うと「自立したい」というものだった。

 二三四は高校受験の前もふつうに学校の勉強をしたくらいで、これといって受験勉強をした経験がなかったから、初めて本格的な受験勉強に取り組んだ。ちなみにこの2年前から「共通一次試験」が始まり、国公立大学を目指す受験生は、国数英以外に社会2科目、理科2科目(いずれも各4科目から選択)の7科目を受験をすることになっていた。

 やがて学校がセットする補修が始まった。一番列車に乗って始業前に1科目補修を受け、夕方もう1科目受ける。日曜日には月1回ペースで外部の模試を受ける。近くに塾はなかったから、生徒たちはこれをベースに、それぞれ内容ややり方を決めて勉強に取り組んだ。参考書をふんだんに買えない二三四は補修内容の復習に重点を置いた。3年の秋くらいには、夕方帰宅するとすぐに布団に入り、夕食後から明け方まで勉強し、朝方少し寝てまた学校へ行く、という生活になった。

 公務員試験を受けながら受験準備を続けていることについて、両親には「力試しのため試験だけは受けてみたい」と伝えてあった。「共通一次の結果が悪かったら、二次は諦めるから」とも。

 いつしか二三四の中では、「公務員として就職=地元で親との同居生活を続ける」「進学=県外で独り暮らし」という区分ができていた。目標はもちろん後者である。

 その実現のためには、苦手な数学も理科もなんとか克服せねばならない。1点でも2点でも、上積みしていかねば、と必死だった。


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