文字を持たなかった昭和469 困難な時代(28)就職試験

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり、少しでも現金収入を得るべく、ミヨ子は季節の野菜などを隣町の市場へ自転車で運んだこと、家庭内の雰囲気は重く気づまりだったことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 やがて二三四は高三になり、卒業後の具体的な進路を決める時期を迎えた。二三四の本音は、簡単に言うと「自立したい」というものだったが、二夫(つぎお。父)もミヨ子も、家から通える範囲での就職を望んでいた

 二三四は、いくつかの公務員試験を受けることにした。いずれ受けると決めていた大学受験の滑り止めの意味もあったが、両親を安心――いや、油断させておく意味合いもあった。一方で受験準備も進めた。通っている高校は「一応」の枕詞がつくものの進学校で、国公立や有名私立を目指す生徒も一定数いた。

 3年生になると朝夕の補修が続き模試も繰り返された。補修と模試に通えば、家にいて父親と顔を突き合わせる時間からも解放される、という「おまけ」もあった。

 その合間に公務員試験を受けた。そのひとつ、「県職」と呼ばれる県の高卒公務員は、同じクラスや元のクラスの同級生数人と待ち合わせて鹿児島市内の会場まで受験に行った(会場は県庁だったかもしれない)。鹿児島市内まで出向くことはめったになかったから、受験後、冬晴れの下で鹿児島市内を流れる甲突川のほとりをみんなと語り合いながら歩いたことを、二三四はよく覚えている。

 県職の一次合格が出て面接の通知が来ると、両親はいよいよ地元で就職か、と喜んだ。職種を選ぶとき、二三四はすでに県の機関のひとつで働いている兄のカズアキが関係している分野を希望した。そこなら合格が堅いと思われたからだ。面接のときもはきはきと印象よく振るまった。

 ただし、大学受験も並行することはしっかり伝えた。二三四の目標はあくまで進学だったから。もっとも、両親ともそれがどのくらい固い意思か気がついていなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?