文字を持たなかった昭和335 梅干し(7)梅干し以外の梅の食べ方

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところは保存食品として毎年手作りしていた梅干しを取り上げており、庭の梅の木から落とした実下漬けしている間に用意した赤紫蘇を下漬けした梅の実に加えるところまで書いた。

 そう、下漬けした梅の実は紫蘇で赤くなった梅酢の中にしばらく漬けておくのだが、次の作業「土用干し」の前に、梅干し以外の梅の実の食べ方について書いておきたい。

 梅干し用に塩で下漬けした梅の実を、ミヨ子たちは「塩梅」と呼んでいた(しおうめ。「あんばい」ではありません)。庭の梅の木に生る実は比較的小ぶりだったが、年によってはかなり熟してから採ったり、熟して落ちてしまったものを集めておくこともあった。そんな、比較的実が柔らかく、梅干し作りの長い工程の間に皮が破れてしまいそうな実は、塩梅の段階で食べてしまうこともあった。収穫量によって、梅干しにするのには量が多すぎるかも、といった判断が働く場合もあったかもしれない。

 塩梅は、梅の香りはあっても塩味も酸味も強烈だ。とにかく、酸っぱい。味も尖っている。お茶請けやご飯のお供に器に入れた塩梅が出されても、二三四(わたし)はなかなか箸を伸ばす気になれなかった。味が尖っているのに果肉が妙に柔らかいことも苦手だった。

 しかし、梅雨時の農作業に疲れがちで、本格的な暑さに備えて体力をつけておく必要もあったのだろう、夫の二夫(父)は塩梅を好んで食べた。もっとも二夫は、男性には珍しく酸味の効いた味が好きで、高菜漬けにも酢をかけて食べるほどの「酢好き」でもはあった。

 梅の実の利用方法の「王道」はもちろん梅干しだったが、生活水準が向上し、身の回りの食材で伝統的な食べ物「以外」のものを作ることが「ハイカラ」――いまで言えばおしゃれ?――と言われていた頃、概ね昭和40年代後半から50年代前半。梅ジャム作りを集落の農家の主婦の誰かが習ってきて、それを真似てどの家でも梅ジャムを作った時期もあった。なにせ材料はどこの家にも大量にある。梅干しの量を少し控えめにし、その分をジャムに回すだけでよい。

 時代は少しずつ美食に向かいつつもあった。梅干しひとつでどんぶり飯を食べるような生活から、ジャムを塗ったパンの朝食、塩分は少し控えて……といった「生活様式の変化」が農村にも波及してきていた。

 ミヨ子も梅ジャムを作った。二三四も梅を洗ったりするのを手伝った。ただ、梅自体酸が強く、ふつうの鍋はジャム作りに向かないのと、パンに塗るくらいしかジャムの食べ方を知らないのに、米を作る農家がしょっちゅうパンを買うのはおかしい、という生理的に近い拒否感もあった。

 酸味が強い梅を使って味のバランスが取れたジャムにするために、ぎょっとするほど砂糖を加えるがゆえの「原価」の高さも気がとがめた。そんなこんなで、ミヨ子は試しに作ったぐらいで梅ジャムはすぐやめてしまった。それに、やめるのが惜しいほどの味でもなかった――と思う。

 ともかく、梅の実はそのままでは食べられず、なにかしら手を加えなければならない。長年作り慣れた方法以外をあれこれ試すほど、ミヨ子はヒマではなかった。そんな時間があれば少しでも体を休めたかった。

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