文字を持たなかった昭和380 昼寝

 昭和中期の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 直近4回はほかの話題に逸れてしまったが、その前はミヨ子たちが昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリを取り上げてきた。そろそろ「その後のミヨ子さん」を続けるべきところ、ハウスキュウリの失敗でダメージを受けた家業や家計についても触れることになるため、書き手としてはキュウリ同様筆が進まない。

 で、つぎのテーマは何にするか決めかねるまま、夏にちなんで昼寝について書こうと思う。(そうめんについて書こうと思ったら、もう書いていた。「百十八(そうめん)」、苦笑)

 農家にとって昼寝、とく夏場のそれは重要だ。気温が上がり切らない早朝にひと仕事し、朝食をとってからもうひと仕事。昼食をとったらとりあえず体を横たえて昼寝する。そして日が傾き始める頃を見計らって、また田畑に出て薄暗くなるまで働く。

 ミヨ子のようないわゆる嫁の場合だと、間に食事の支度や洗濯などの家事も入るから、家じゅうがごろりと横になっている時間は、控えめにでも体を休められるのはありがたかった。

 嫁いだ先の農家、つまり夫の二夫(つぎお。父)の家は、舅の吉太郎が奮闘して一代で田畑も屋敷も手に入れたことは何回か書いており、屋敷全体の様子も「八十一(屋敷)」で触れている。

 大正時代、まだどの家も囲炉裏を焚いていた頃に建てられた大きな屋敷は天井が高く、明治期の外国人が評したような「木と紙の家」だったので風通しはよかった(もちろんその分冬は寒い)。南に庭があり、庭に面するのが表側で出入り口や縁側もこちらにあった。一方屋敷の裏手、北側は下りの斜面になっており、斜面にはたくさんの雑木が生え、小さな林のようだった。その先には集落の田んぼがある。この雑木林のおかげか、田んぼから上がって斜面を抜けて吹き上げる風は、夏場でも涼しかった。

 夏の日中は、裏の背戸を開け障子を放って、風を表側に通した。樹々を抜けてくる風はほどよくひんやりしており、大げさでなく扇風機もいらないほどだった。

 昼寝のときは、二夫や吉太郎は表側の座敷で横になった。姑のハルや、長男の和明も表側に寝転んだ。一方ミヨ子は、背戸に近い納戸で横になった。娘の二三四(わたし)も母親といっしょのことが多かった。つまり、「女子供が表で寝転ぶなんて行儀が悪い」という考えからだ。

 家族の、もっと言えば当時の地域の誰一人(もしかすると日本の農漁村のほとんど、都市部でさえ)、それが「差別」だとは思わなかった。ミヨ子自身、舅や姑から目の届くところでは、短時間とは言えくつろげなかった。

 ただ納戸で横になるのは難点もあった。風が涼し「すぎる」のだ。昼ごはんを食べた勢いで薄着のまま寝転んでいると、風の冷たさで目が覚めることがあるのだ。
「納戸で昼寝するなら、薄いものでも一枚は羽織っておかないとね」
が、昼寝するときのミヨ子の口癖だった。

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