文字を持たなかった昭和474 困難な時代(33)夫婦ふたりに

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり家庭内の雰囲気は重く気づまりだったこと、高校卒業を控えた娘には地元で就職して家計を助けてほしいという両親の希望に反して、当の二三四(わたし)は県外の大学に進学したことなどを述べた。

 二三四は「仕送りはいらない」と宣言し働きながら学ぶ道を選んだ。残されたのはミヨ子と二夫(つぎお。父)の夫婦ふたり。二三四が高校に進学するまでは長男のカズアキもいて親子4人の暮しだったのに、あっという間に二人になった。その間に、家計は厳しさの度合いを強めつつ。

 夫婦だけになったのだから支出は多少なりとも減った。少なくとも学費はいらない。しかし、切り詰められる部分はすでに切り詰めていたから、3人が2人になってかなり楽になった、というわけでもない。農作業も家事も、二三四が多少でも手伝っていた分をあてにできなくなり、50代半ばに差し掛かりつつあるふたりには、身体的負担も増えた。ことに、もともとそれほど丈夫ではないミヨ子にとっては。

 結局、暮らし向きは変わらない。多額の負債を返済するスピードは上がらず、利子を返すぐらいが精一杯の日々が続いた。

 農作業がいちばん忙しい田植えや稲刈りの時期には、県内で働いているカズアキが帰ってきて手伝うことは、それまでもあったし続いてもいた。ただ、いまでいうソーシャルワーカーに属する職種で休日や勤務時間が不規則なため、休みが農作業のタイミングにうまく合うとは限らない。つまり働き手の補充としてあてにはならないということだ。

 それでも、体力がみなぎる20代前半の青年が手伝ってくれると、農作業の効率は格段に上がった。農機具の操作も少し教えれば一人前にやってくれる。家にあるありあわせのおかずを詰めた弁当を、田んぼの畦に腰かけて3人で食べながら、ミヨ子は
「カズアキが、役場でも農協でも地元で就職できればよかったのに」〈203〉
という、これまでに何回も考えたことがまた頭をもたげるのを感じていた。

 もちろん考えてもせんないことで、カズアキはすでに別の道を歩いている。息子が県内におり、いちおう公務員に属する安定した職を得ているのはむしろ喜ぶべきことだった。息子が時々帰ってきて、農作業をむしろ楽しそうに手伝ってくれるだけでありがたい。ことに、娘が県外に出てしまったいまとなっては。

 それでも息子と娘では、話せる内容も反応も違う。ミヨ子にしてみれば、二三四だったらこぼせた愚痴も、カズアキ相手にはためらうどころか聞いてくれるとも思えなかった。

 頼りになった作業が終わってカズアキが帰り夫婦ふたりに戻ると、先々の農作業の確認をするくらいで会話らしい会話もない静かな生活が続く。ミヨ子はそれを淡々と受け入れるしかなかった。

〈203〉長男のカズアキが地元で就職できなかったことは「354 ハウスキュウリ(3)計算外」で述べた。 


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