文字を持たなかった昭和354 ハウスキュウリ(3)計算外 

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 新たに、昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べることとし、前項では労働力の状況として当時の家族構成などを振り返った。

 その中で「(長男の)和明が高校卒業後地元で就職し兼業の形で家の農業を手伝うことを二夫(つぎお。父)は期待、というより既定路線として織り込んでいたのではないだろうか」と書いた。実際和明は、長男として生まれたときから跡継ぎとして期待され、周囲も本人もそれは当たり前のことでもあった。

 ただ、高度経済成長期を経て、農業従事者が専業から兼業にシフトし、勤めによる固定収入を得る傍らで自前の農地は手放さず、休日などを中心に勤務時間以外で耕作を維持するスタイルが定着していった。一方で、地方の若者の多くは、工業やサービス業の担い手として、中学卒業、高校卒業と同時に都市部へ転出していき、その流れは増えこそすれ減ることはなかった。

 そんな中、たった一人の「跡取り」である和明も、高校卒業を控えて、どんな進路を取るべきか悩んだはずだ。両親、とくに二夫はやきもきしただろう。

 ひとつはっきりしているのは、それほど勉強熱心でなかった和明に大学進学の選択肢はもともとなかった、ということだ。そもそも、当時ミヨ子たちの集落はもとより町内全体でも、高校卒業生はほとんど就職した。よほどの秀才が国立大学に進むか、よほどの金持ちが跡継ぎを私立大学に入れるかぐらいで、大学に進学する子供は極めて少数だった。

 自然、和明は県内、できれば地元での就職を模索した。

 しかし、和明が高3だった昭和52(1977)年という年の地元は就職難だった。もともと少ない受け皿が何かの理由で採用を絞っていたのか、応募者が例年より多かったのか。町役場、農協、消防署等など、跡継ぎとして自宅から通いながら勤務できそうな先にかたっぱしから応募したが、ことごとく落ちた。同期の中で飛びぬけて頭脳明晰でもなかったが、成績が悪いわけでもなく、父親に似て近所づきあいがよく顔も広い和明なら、どこかに引っかかりそうだったが、うまくいかなかった。

 行き詰った和明は、親戚から勧められて県内異動を伴う地方公務員を受け、これだけは合格した。定年まで自宅のある地域には戻れないという規定のある職種だ。

 これにより、主要な労働力に息子を加えてハウスキュウリを経営するという二夫の計画はあっさり潰えた。のみならず、跡継ぎとして田畑を耕してもらうことも望めなくなったのだ。まさに計算外、それも人生の計算が大きく狂った思いだっただろう。

 個人的には、というか妹として二三四(わたし)は、兄は就職できたこの職種に向いていたと思うしいまもそう思う。ただそのことと家の事業の経営は違う。ことに、大規模な事業を始めるに当たり重要な働き手が得られなかった影響は、かなりのものだったと言わざるを得ない。

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