文字を持たなかった昭和515 酷使してきた体(27)歯③総入れ歯

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。

 このところはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記してきたが、そのひとつとして歯の状態に触れることにして、前々項では昭和中期頃のお口のケアについて、前項では歯医者にはあまり行かなかったことなどを述べた。

 こまめなお口のケアができないでいた結果、ミヨ子や夫の二夫(つぎお。父)は歯を何本か抜いたり、部分入れ歯を入れたりしたのだが、ある時期ほぼ総入れ歯に換えてしまった。

 それがいつだったのか、二三四(わたし)にははっきりした記憶がない。大学卒業後首都圏で就職し、そのあと海外と行ったり来たりの生活だった二三四は、両親の大きな病気の際にも数日帰省してお見舞いするぐらいしかできなかったが、歯の状態についてはまったく認識していなかった。

 あるときの帰省で、ふと両親の口元を見て、歯並びが異様にきれいというか歯がずらりとそろった状態になっていることに気づいた。「もしかして入れ歯を作ったの?」と尋ねると、そうだという答え。二人が同じタイミングでこしらえたのか、どこで作ったのか聞きそびれた。

 その頃は二人とも70代になっていたと思う(ということは、だいたい2000年代初めだ)。「まだ若いのに」と驚き、健康な歯まで抜いて入れ歯にしたのだろうか、と惜しいようなつらいような気持ちになった記憶が二三四にはある。

 しかし、限られた歯で用心しながら食べ物を噛んでも、消化にいいとはとても思えない。食べられるものも自然と制限されるだろうし、残った歯への負荷も大きいだろう。いっそ全部入れ歯にしてしまうほうが、体にはむしろよいのだろう。それに、当時でも70代はまだまだ若いと感じられたが、昭和一桁生まれのミヨ子たちにすれば、70代はもう十分高齢で、総入れ歯は恥ずかしくもないことだったのかもしれない。

 その後二人とも入れ歯を使い続け、ミヨ子はいまも同じ入れ歯で過ごしている。正確に言えば総入れ歯ではなく1、2本自分の歯があり、そこを支柱代わりにしているようだ。入れ歯のおかげで、極端に硬いものと体質的に受け付けないもの以外は何でも食べられる。二三四と会話を交わすときの口癖が「ご飯がおいしい」のミヨ子だが、それも入れ歯があればこそ。

 お口は体の入り口。自分のでも人工のでも、やはり歯はとても大切なのだ。

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