文字を持たなかった昭和514 酷使してきた体(26)歯②歯医者

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 このところはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記している。今度は歯の状態に触れることにして、前項では、毎食後歯磨きする習慣はまだなかった昭和中期頃のお口のケアについて述べた。

 ミヨ子たちの一家には、ちょっとしたむし歯や歯の痛みがあればすぐに歯医者に診てもらう、という習慣もなかった。そもそも、当時で人口7000人くらいの小さな町では、そのささやかな商業地域に歯医者が1軒しかなく、農村部にあるミヨ子たちの集落からは通いにくかった。それに、歯の治療と言えばいまもその傾向はあるが、ちょっと治療して次は来週、全部の治療が終わるのに何回も通わなければならない歯医者には、なかなか足が向かなかった。とくに農繁期には。治療費がその都度現金で出ていくことも、一年間で収入が入ってくる時期が限定される農家には負担だった。

 だから、歯医者に行くのは限界までがまんした、と言っていい。小さなむし歯は見て見ぬふりをしたし、その結果大きくなったむし歯が痛むときは、正露丸を詰めてしのいだ。それを繰り返してエナメル質が脆くなってしまい、ほとんど歯根しか残っていない状態になってから歯医者に行くと、医者から「もう抜くしかないですね」と言われることもままあった。

 結果的に、ミヨ子も夫の二夫(つぎお。父)も働き盛りの頃から歯には悩まされた。二人が50代、子供たちが高校生ぐらいの頃からだろうか。奥歯が何本か抜かれてしまっているので、食べ物を噛むのに不自由が生じるようになった。やがて、奥歯の上下の歯がそろっているペアは減っていき、犬歯くらいまで前にいかないと上下がかみ合わない、という状態も生じた。

 その頃からミヨ子は硬い食べ物には気をつけるようになった。リンゴなども、皮を剥き8つ割りくらいにしたものを家族に出し、自分の分はそれをさらに――5ミリくらいの薄切りにしてから食べた。奥歯がないとやはり不便なので、部分入れ歯を作ったのもこの頃だと思う。

ちなみに、歯の手入れが不十分だったのはミヨ子たち(夫婦、あるいは家族)に限った話ではない。地域のおじさん、おばさん、おじいさん、おばあさんも大同小異で、年をとると歯が抜けてなくなるのもまた「当たり前」だった。

 高度経済成長期以前、こまめに歯磨きする習慣もそのための環境もなかったのは、都市の一部の層を除けば、ほかの日本人も似たり寄ったりだったはずだ。その結果、口を開ければまさに歯抜け状態のお年よりは、いくらでも見られたものだ。

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