文字を持たなかった昭和 百七十七(お彼岸に寄せて――お仏壇、続き)

 秋のお彼岸も今日まで。

 昭和40~50年代の鹿児島の農村で、母ミヨ子たちが過ごしたお彼岸を書こうとして、結局、ふだんのお仏壇とのつきあいについて書いたが、長さの関係で朝のことが中心になった。「続き」として夕方のことなども書いておこうと思う。

 ミヨ子たち一家(つまりわが家)はみな、毎朝夕お仏壇にお参りしていた。夕方は、晩ご飯の前にお参りすることが多かった。

 姑のハルなどは、朝お供えしたご飯とお茶を片づけがてら、早めにお参りすることもあった。小腹が空いていれば仏様のご飯をおにぎり代わりにいただくのだ。仏飯器(ぶっぱんき)の容量はせいぜいお猪口程度、大小の仏飯器のご飯を両方食べてもおにぎり半分にもならない量だが、夕飯までのつなぎにちょうどよかったのだろう。

 ハルは仏様のご飯をとてもありがたがり、しばしば
「仏様のお下がりをいただくと、目が光ってくる」
と言っていたが、子供だった二三四(わたし)には意味がよくわからなかった。目がよくなるという意味かな、とも思ったが、いろいろなものがよく見えるようになる、世の中のことや人の気持ちがよく理解できるようになる、という意味だったらしいことに、あとで気がついた。

 もっとも一日仏壇にお供えしたご飯は、夕方には固くなっている。とくに表面はカピカピだ。ハルが仏様のご飯を食べないとき、そしてハルが亡くなってからは、夕食用に炊きあがったご飯を蒸らす前に、ご飯の上のほうへ置いて湯気で温め直すことが多かった。表面の固い部分は残るものの、熱々の湯気で蒸らされたご飯は、おいしくいただけたのだ。ただ、これを舅の吉太郎や夫の二夫(つぎお)と言った男衆のご飯によそうことはまずなかった。お下がりは女衆がいただくのだ。

 お仏壇の花の水はほぼ毎日換えたが、これは日中のこともあった。花は数日に一度、庭の花を切ってきて、しおれかけた花と交換した。もちろん、お彼岸やお盆といった節目には、ほとんどの花を取り替えた。これらは、姑のハルが元気な頃はハルが、衰えてきてからはミヨ子が担った。

 花入れの世話は子供が手伝うこともあったし、子供が大きくなってからは、花がしおれかけてくると自分から庭の花を切りに行くこともあった。と言っても上の和明は興味を示さないし、そもそも「男の子だから」家の中のことをさせることはまずなかった(その代わり力仕事は和明に回ってくる)。花の取り替えを含む仏壇の手入れを手伝うのは、女の子の二三四だった。


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