文字を持たなかった昭和 百七十六(お彼岸に寄せて――お仏壇)

 母ミヨ子が現役主婦だった昭和40~50年代、秋のお彼岸はどう迎えて過ごしていたか。

 「暑さ寒さも彼岸まで」という諺を引き合いに出しながら、農作業の段取りをすることはあったが、簡単に言えば、お墓参り以外これと言って特別なことはしなかった。

 ミヨ子の嫁ぎ先に限らず一帯の地域ではほとんどすべての家に、大小や立派かどうかは別としてお仏壇があり、どの家も朝晩拝んでいた。つまり、先祖を祀り一家の安寧を祈ることは生活の一部だったから。

 朝と晩は必ず「お燈明」と呼ぶろうそくに火をつけ、お線香を上げる。

 朝はお燈明を灯す前に、淹れたてのお茶を供える。換えたばかりの茶葉にお湯を潅ぎ家族が飲む分のお茶を注ぎ分ける前に、仏様の小さな湯呑みに、少量だが香りの立つお茶を注いだ。

 ご飯は、足のついた金属製の大小の器(仏飯器〈ぶっぱんき〉と呼ぶらしい)に、こんもりと盛りあげるようによそった。木製のしゃもじではご飯をきれいな形に盛るのが難しい。しゃもじにご飯粒が付くとよけいきれいに盛れないので、水に濡らしただけでまだ使っていないしゃもじで、炊きたてのご飯の真中あたりをそっと掬って盛った。

 ミヨ子はよく
「仏様は(供えものの)湯気*を召し上がるからね」
と言っていた。誰から教わったのか本人も覚えていないが、できたて、淹れたての熱いうちにお供えするのだ、と言いたいようだった。

 お茶をあげるのは、一日の最初のお茶を淹れた人だったので、ミヨ子のこともあれば、姑のハルのこともあり、まれに夫の二夫(つぎお)のこともあった。ご飯が炊けるのは朝食の支度の最中、忙しいミヨ子に代わってお供えのご飯を子供たちが持って行くこともあった。

 家族はみな、顔を洗ったあとまずお仏壇にお参りした。「南無阿弥陀仏」と小さな声で唱えながら、家族の一日の安寧と、少しだけ自分の願いごとを祈る。朝ごはんはそれからだった。

*鹿児島弁:ほけ。「」内の発言を鹿児島弁にすると「なんなんさん(様)は ほけを た(食)もいやっでねぇ」。

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