文字を持たなかった昭和299 スイカ栽培(8)手作りの道具

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 このところは、昭和40年代初に始めたスイカ栽培について述べている。前回、促成栽培のための「トンネル」をかけるところまで書いた。

 前々回ではトンネルの支柱にする竹、前回はトンネルを覆うビニールシートを固定するためのビニール紐について書いていて、当時はちょっとした道具もほとんど手作りしていたのだと、改めて思った。

 支柱については、ミヨ子たちがスイカ栽培を始めて数年後には鉄製のパイプを導入したと思う。竹では耐久性や使い勝手に問題があったのだろうが、スイカを作る農家が増えると――つまりマーケットが拡大すると――農業資材もメーカーがより利便性の高いものを作って提案する、という方向に進んだのだろう。

 それを採用するかどうかは個々の農家の裁量のはずだが、顔見知りの農協の指導員から「これが最新式」「ここが便利」「他の人も買いましたよ」などと言われれば、断れなかっただろう。まして、ミヨ子たちが住んでいた、誰も彼も知り合いのような小さな町では。

 ビニールシートを固定する道具も、もうかなり前からだろうが、洗濯ばさみのようなクリップが普及しているようだ。これとてお金を出して買うものだ。

 つまるところ生産者である個々の農家も、市場経済、資本主義のシステムの中で消費者にもなっている。まあ、当たり前なのだが。

 道具に限らず、使うもの、食べるもの、場合によっては着るものも、身近な材料でほとんどを手作りするのが当然だったであろう明治生まれの吉太郎(祖父)、ハル(祖母)からすれば、一から十まで農協から買わなければならない時代の到来は、歯がゆいという前に理解できなかったかもしれない。
「竹や木をわが家の庭や山から切ってきて作ればいいのに」
ぐらいのことは、息子の二夫(父)に言ったのではないか。

 農家がお金を出して石油製品をはじめとする様々な資材を買う状況はいまも続いているわけだが、環境保護の声がいま世界中で高まっている状態を見るにつけ、皮肉なようにも、ある種の悲しさがまつわるようにも感じてしまう。

 もちろん、環境を汚染しかねない資材を含む「便利なもの」の恩恵を、自分を含む多くの人が長年にわたって受けてきたことは、否定できない事実なのだが。

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