文字を持たなかった昭和 八十四(若葉の朝)

 その日は日曜日だった。学校に行くような子供でもいなければ、農家の仕事に曜日は関係ない。ミヨ子はいつものように早起きし朝食の支度をしていた。舅の吉太郎と夫の二夫(つぎお)は、集落こぞっての道路整備に早朝から出かけていた。ほとんどが農家の集落でも、ごく少数ながら勤め人の家庭もあるので、共同で行う作業は日曜日の午前中が多かった。

 ミヨ子は土間の台所に立ち、竈でご飯を炊きながら漬け物を切り、「おつけ*」を作る。北向きではあるが、台所の隙間から見える若葉の鮮やかな緑が際立つ。ここ鹿児島では、暑さを感じる日が始まっていた。
「今日も暑くなるかも」とミヨ子が思ったそのとき。

 強い痛みが腹部を襲った。すでに二人の子供を身ごもった経験のあるミヨ子は、それが出産の予兆だとすぐに分かった。姑のハルに声をかけ、陣痛が始まったことを告げた。たぶん痛みは波状的にやってきて、だんだん間隔が短くなる――はず。痛みの合間に朝食の支度を続けようとしたが、痛みはどんどん強くなってくる。

「産婆さんに来てもらわないと!」
 ハルは道路整備の現場に向かった。小さい集落のこと、現場まではすぐだった。二夫は現場を離れられず、吉太郎が産婆さんを呼びに行くことになった。長男のときは慎重を期して病院で出産したが、お産ごときで医者にかかるなんてとんでもない、という考えの舅と姑は、当然のように産婆さんを呼んだ。

 近隣の子供をほとんど取り上げたベテランの産婆さんは隣の集落に住んでいた。産婆さんの到着を待つ間にも陣痛はどんどん強くなる。戻ってきたハルは、竈の焚口すべてでお湯を沸かす支度をしてから、仏間に布団を敷いた。「台所」で触れたように、仏間は「表の間」と呼ばれ、外の人をもてなす部屋でもある。しかし、お産婆さんに十分働いてもらうためには南向きの部屋のほうがいい、とハルは思ったのかもしれない。

 ようやく産婆さんが到着した。あわてることなく手をきれいに洗うと、仏間で耐えているミヨ子の様子を診た。 ハルは台所と仏間を行ったり来たりしながら様子を伺った。大きな鍋や釜にお湯が沸くと、これまた大きなタライに移して新しいお湯を沸かした。仏間ではミヨ子の呻き声が続いた。

 ほどなく。
 赤ん坊の元気な泣き声が響いた。
「ミヨちゃん、よく頑張ったね」と産婆さんが声をかける。産まれたての赤ん坊を、ハルが湯加減したお湯で産婆さんがきれいに洗う。

「かわいい女の子ですよ」
 ミヨ子の傍らに、小さい小さい女の子が寝かされた。昭和37(1962)年の5月20日、午前の明るい光が障子越しに赤ん坊を包んでいた。

*鹿児島弁:オッ(ケのほうが高い)。女房詞で汁物を指す「おつけ(御付け)」が短縮されたもの。味噌汁は「ミソンオッ(味噌のおつけ)」だが、毎日食べるので単に「オッケ」と呼ぶことが多かった。「おつけ」のような都ことばが、鹿児島弁には多く残っている。


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