文字を持たなかった昭和 八十二(台所)

 昭和30年代、母ミヨ子たちが住んでいた屋敷、のちにわたしが住むことになる家について書いた。次に、ミヨ子が多くの時間を過ごしたであろう台所について書いておきたい。

 昔の民家の特徴として、台所は家の北側にあることが多かったようだ。冷蔵庫がない時代、食品が腐らないよう、なるべく室温の低いところに台所を配置するのが合理的だったからだ。もうひとつは、台所や浴室、トイレのような場所は「人に見せないところ」と考えて家の奥側に配置した、という理由もある。

 明るい南側や東側を「表」と見て玄関や客間などを配置するとすれば、住人の生活に密着する水回りは「裏」と考えたとも言える。内と外を分けたがる日本人の思考様式と照らし合わせると興味深い。

 ミヨ子の家でも、台所は北側にあった。大きな屋敷ということもあり台所もけっこう広かった。ミヨ子が結婚した昭和29(1954)年頃、嫁ぎ先の農家を含め、一帯の家庭はほとんど竈(かまど)を使っていた。ミヨ子の家の台所にも大きな竈があり、焚口が3つほどあった。台所の床は板張りなどではなく土間から続いており、下駄履きで台所に立つことも多かった。外の農作業から帰って急ぐときは、農作業用の履き物のままでも台所仕事ができた。

 水は井戸水を使った。手押し式のポンプをつけた井戸が台所の脇にあり、汲み上げた水は流し台の横にしつらえた水入れ――石をくりぬいたか、セメントで固めた、四角い水槽――に貯めておき、必要な分をひしゃくで汲んで使った。水槽には木の蓋を被せ、底には穴が開いていた。水を貯めるときは穴を栓でふさぐ。水を使い終わったら栓を外して中を掃除してから新しい水を入れるので、中の水はいつもきれいだった。水槽の栓を抜くと、残った水は流し台に流れるように設計されていた。

 流し台も石でできていた。平たい石を組み合せてセメントで固めてあった。使った水は台所の壁の外へ流れ出て、屋敷の裏山に流れていく設計になっていた。

 天井の梁からは蓋つきのカゴがいくつも下がっていて、中には乾物などの保存食品や、食べかけの食品が収められていた。冷蔵庫のない時代であり、屋敷には水屋もなかった。流し台や竈のまわりに食品を置いておくと、ゴキブリやネズミに齧られるのだ。調味料類は瓶や甕に入れてしっかり蓋をしてから、流しの下などに置いた。

 煮炊きはすべて薪を使い竈で行った。マッチを擦って紙切れやボロ布れに火を点け、広げた小枝を乗せて火を移す。次にもう少し太い枝を燃やし火の勢いを強くする。火が長持ちする太い薪を燃やすのはそのあとだった。お湯を沸かすぐらいなら火加減も簡単だが、飯炊きや料理の火加減は単純ではなかった。一回火を起こしたら、なるべく切らさないよう気をつけた。もう一度火起こしする手間が惜しいという理由以外に、現金で買ってくるマッチを無駄にすると、舅や姑の目が厳しかったためでもある。

 だからと言って、火加減のために竈に貼りついている余裕はなかった。台所仕事はもちろん、他の家事、場合によっては屋内でできる農作業をしながらご飯の支度をするのは当然だった。台所仕事を含む家事一切はお金にならない。家事は暇をみつけて手早くできて当たり前、本業である農作業でどのくらい貢献できるかで、農家の嫁の評価が決まった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?