文字を持たなかった昭和 三十七(山林)

 母ミヨ子の次のお話を進める前に、嫁ぎ先の家業を左右したこの話題に触れておきたい。

 舅の吉太郎は田んぼや畑以外にも山を手に入れていた。山で育った木をいずれ材木として売ることを考えていたのだろう。つまり長期投資だ。戦後、山林の所有はまさに宝の山を持っていることと同義だった。

 また、木を大きく育てるために落とした下枝や間伐材などは、農業用資材や燃料として利用できた。木造家屋のちょっとした修理などにも使えた。実際、わたしが子供の頃台所にはまだ竈があり、風呂はずいぶんあとまで薪で焚いていたから、山から持ってくる焚き木は、大いに利用されたというより生活に欠かせないものだった。

 一方、戦後の混乱した経済と生活が落ち着いてきて(朝鮮戦争特需の恩恵もあっただろう)「ともかくご飯をお腹いっぱい食べたい」という庶民の願いは、だんだんと「よりおいしいものを食べたい」という方向へ向かっていく。国の産業政策の中心は第一次産業から第二次産業へ向かい、農業政策もコメなどの基本食料以外の作物の振興に拡がっていく。とくに果物は、食料不足時代でも高値で取り引きされていたし、輸出用として競争力がある果物もあるなど、農家にとっては魅力的な分野だった。

 そこで、吉太郎が持つ山林の一部をミカン山に造成することになった。昭和30(1955)年前後に果物栽培奨励の政策が打ち出され、たとえば農協などから「営農指導」があったのか、ミヨ子の夫である二夫(つぎお)自身のアイディアだったのかはわからない。

 いま調べている限りでは、政策としての果樹への転換奨励はもう少しあとのような気がするし、二夫に先見の明があったとも考え難い。少なくとも商売や蓄財の才覚があるとは思えない人だったから。ただ、一粒種を授かったのは40歳前後で、すでに老境に差し掛かりつつある両親を助けて、農家の後継者として経営を広げかつ安定させることを考えた二夫が、世間の動きや周囲の意見を参考に、果樹(ミカン)にも手を広げようと思ったとしても不思議ではない。

《主な参考》
戦後農政の流れ:農林水産省 
わが国果樹栽培技術の課題と展望(J-STAGE)
日本における主要果樹生産の展開(J-SAGE)

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