文字を持たなかった昭和294 スイカ栽培(3)スイカ畑の場所

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 ひとつ前のテーマ「ミカンからポンカンへ」(1)(13)では、ミカン栽培が普及したために、より高級な果物としてポンカンへ転換したことを述べた。その中で、ポンカンに集中できなくなった理由として「ポンカンと前後して、ほかの果物の栽培を始めたことも負担になっていたと思う」と書いた(8)。その「ほかの果物」こそスイカだった。

 ポンカンとスイカのどちらが先だったか、二三四(わたし)は思い出せない。物心ついた頃にはよく田畑の手伝いに行っていて――親に連れられて田畑に行くうち手伝いも覚え、というのが正しいかもしれない――、ミカン山もスイカ畑も、それぞれの作業風景も覚えているが、どちらも幼稚園を終える頃から小学生の昭和40年代がいちばん忙しかったように思う。もっとも、中学に上がってからは部活に時間を割くようになったせいかもしれないが。

 家から少し離れていて、しかも山道を入っていくミカン山と違い、スイカ畑は集落の端っこにあった。集落の人びとはその場所を昔もいまも「ハッボイ」と呼んでいるが、正式な地名なのか、どんな字を当てるのか尋ねたことはない。促音も語尾の「イ」もおそらく鹿児島訛りで、とくに後ろの「ボイ」は「堀」の変化のようにも思う。

 しかしスイカを植えた畑は「堀」のような水が流れるところではなく、小高い丘の上にあった。ミカン畑にした山などの山林を除けば、集落を含む一帯の地域の中でいちばん高い場所でもあった。集落のご先祖たちが丘の頂上を切り開いたのか、戦後の農地改革と関係するのか、丘のうえには何軒かの農家の畑が平らに広がっていた。後年、国道3号線から逸れて丘の中央を横断し、さらに遠くの山林へ通じる農業用道路がアスファルト舗装で整備されるのだが、それまでは広い道路ではなかったし、もっと前は林の中の細い坂道を通って集落の中心部から出入りしていたらしかった。

 この坂道はいまでいうショートカットでもあり、荷物が少ないときはこちらのほうが早かった。ミヨ子もここを通ることがあったし、二三四たちを連れて通ったこともあった。もっとも雑木林の中を通るこの道は薄暗くちょっと不気味で、時間の節約を優先させるには、子供にとって代価が大きかった。

 ともかく「ハッボイ」は日当たりがよかった。何軒分もの畑の周囲は林になっていたが――やはり山林だったところを切り開いて平らにしたのだろう――子供の目には「見渡す限り畑」のように見えた。その一角にある畑をスイカ栽培に充てたのだ。ミヨ子たちの畑は農道の脇から少し上がったところにあり、出入りもしやすかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?