文字を持たなかった昭和 百二十八(魚売り)

 「百二十六(魚屋)」で、母ミヨ子が農家の嫁として多忙だった時代、近所にあった鮮魚店について書いたが、魚の行商もあった。

 ミヨ子たちが住んでいた町の海側に小さな漁港はあったものの、北隣のK市〈104〉の漁港はもっと大きく、遠洋マグロ漁の基地でもあり、漁業は市の中心産業だった。そこの魚屋さんが、オートバイで鮮魚を売りに来ていたのだ。

 オートバイが普及してからだから、昭和30年代後半以降かもしれない。毎日ではないが、ミヨ子たちの集落に来るのはだいたいお昼ごろだった。K市でも大きなH漁港から来ているという魚屋さんは、集落の中心にある田畑を取り囲む道路の決まった場所――ちょうどミヨ子たちの家がある坂の下あたり――にオートバイを停め、お客を待った。

 子供のわたしの記憶では、おじさんが音楽を流すとかラッパを吹いて知らせたという覚えはない。近隣の主婦はだいたいの時間に気をつけており、オートバイの音がすれば、最初のお客さんが品定めをする間に三々五々集まってきたのかもしれない。

 おじさんはバイクの荷台に高さ1メートルほどありそうな、大きな箱を乗せていた。保冷機能があったのかどうかはわからない。箱にはいくつも棚があり、鮮魚やイカ、タコ、そしてかまぼこや「つけあげ」と呼ぶすり身の揚げもの〈105〉などの加工品も入っていた。

 おじさんは朝水揚げしたものを売りに来るのだから、鮮度はよかった。ミヨ子たちは、家の近くまで来てくれる魚売りを重宝した。

 わたしは、おじさんが持ってくるつけあげがお気に入りだった。おそらく自家製で、鮮魚と同じ箱の中でどう区分されているのかわからなかったが、つけあげはほんのりと温かかった。わたしは毎回ミヨ子のお供をするわけでもなく、お供をしても毎回つけあげを買うわけでもなかったが、つけあげを買ってもらい「いま食べてもいい?」と許しを得て、パクきながら坂を上がって帰ったときのおいしさは忘れられない。

 そんな売り方は、のちの流通網の発展とともに姿を消していった。行商のみならず、個人経営の豆腐屋魚屋、そして「 マッちゃんち」のような個人商店も、農協系のスーパーなどに取って代わられていくのである。

〈104〉いわゆる平成の大合併の際、ミヨ子たちの町(つまりわたしの郷里)とK市は合併した。
〈105〉鹿児島以外で「さつまあげ」と呼ばれる練り物。北部九州では「てんぷら」と呼ぶ。

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