文字を持たなかった昭和472 困難な時代(31)女のありかた

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。

 あらたに、昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリに失敗し一家が厳しい生活を送った時期について書いている。家計は八方ふさがり家庭内の雰囲気は重く気づまりだったことなどを述べた。いずれも楽しい内容ではなく、この先も楽しい話にはなりそうもない。

 そうこうするうち娘の二三四(わたし)は高三になった。夫の二夫(つぎお。父)もミヨ子も、娘には家から通える範囲での就職を望んでいたから二三四は地元の公務員試験を受けてはいたが、大学受験を諦めきれずにいた

 子供の言動で父親が怒ったり機嫌を悪くしたりしたとき、母親が間に入ってとりなす、という図式が多くの家庭で見られるだろう。「カミナリ親父」「頑固親父」が当たり前だった昭和の家庭ではそれが一般的で、母親は緩衝地帯であり両方からの拠り所でもあった。もちろん、逆の家庭もあっただろうが少数派だっただろう。

 進路のことで父親と相入れなくなったとき、二三四は母親のミヨ子には自分の味方になってほしかった。男尊女卑、亭主関白を絵に描いたような夫に対して、正面切って抵抗するのは無理だとしても
「二三四の気持ちもちょっと考えてあげて」
くらいのことは言ってほしいと願った。

 が、ミヨ子は二夫に同調まではしなくても、二三四のほうに翻意するよう促した。考えるまでもなく、両親ともに基本の考え方は同じなのだ。「(27)娘の進路」で述べたように、女の子を外に出す、まして大学に行かすなど「あり得ない」と考えていたのだ。

 その前に、ミヨ子にとって夫(家長)の意見は絶対だった。舅の生前は舅と夫の両方を、舅が亡くなってから夫をまず「立てた」。それが嫁として女として当たり前のことだ。娘にはそんな「女としてのありかた」を身を以て教えてきたはずなのに、この子はどうしてこんなにわがままなんだろう、とむしろ不思議に思ったかもしれない。

 近年、児童や乳幼児への虐待の個別の状況が明らかになる過程で、母親にあたる女性本人も被害に遭っており、わが子を守るより加害者であるパートナーの側に立っていたというケースが報じられることがある。二夫たちの間で直接的なDVはなかったが、精神的に支配されていたという意味ではDVの領域に入るのかもしれない、と二三四はいま考えることがある。少なくとも、母親は夫に対して何も言えなかった。

 ただ、そういう状態を「ふつう」「正常」と感じ――信じさせていた、とも言える。誰が? 社会であり、制度であり、教育であり、長い年月そこに関わってきたすべての人間である。

 などとは、個人の自由が最大限尊重される「いま」の社会に生きる人々の視点であって、当時の、とくに地方の人びとは、「昔からこうだから」という基準に依って生きることが求められたのだし、個々の批判はできないとも思う。絶対的な基準やルールにしたがって生きるほうが、ある意味楽でもあり、もしかすると社会も安定するのかもしれない。

 しかし、そこに収まりたくないと思う者は、いずれ必ず出てくるのだ。

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