文字を持たなかった昭和 百十二(選挙)

 参議院議員選挙が近づき、選挙演説や政見放送などが身近で展開されている。母ミヨ子本人のストーリーから少し外れるが、選挙のときミヨ子はどうだったか考えてみた。

 昭和5(1930)年生まれのミヨ子が成人する頃は、女性も参政権を有する時代に入ってはいた。だが参政権を持つことと政治を意識することは、当然イコールではない。学歴云々以前に、子供の頃から食べること、食べられるようになることが最優先だったミヨ子――たち世代の多くの女性、と言っていいかもしれない――にとって、政治は縁遠い世界だった。

 昭和29(1954)年、農家の一人息子である二夫(つぎお)と結婚し、嫁として家を支える立場になってからも、働くことと家事が優先で、社会情勢や経済について考える機会や場、そもそも時間がなかった。日々のやりくりと経済成長とセットでもたらされた物価上昇には関心があったが、それが社会や政治とどうつながるのかまで深く考えられなかった。「外向きのことを考えるのは男(夫)の役割」という意識も手伝っていた。

 国政から町議会議員まで、大小の選挙が近づくと、二夫たち男衆は、農協の役員や地域の世話役から農業政策に力を入れている(とされる)候補者に投票するよう依頼された。年長者や地元の有力者を上位とするヒエラルキーが明確な鹿児島の農村においては、その「依頼」は「命令」、多少柔らかく言えば「下達」に近かった。「〇〇さんに頼まれたから」という理由で特定の候補者に投票するのは、ほとんど決定事項だった。

 そして女(妻や娘)たちは、男(夫や父親)の指示にしたがって、投票するのであった。

 もともと候補者自体にそれほど多くの選択肢があるわけではない。比例代表制がなかった当時、国政選挙の場合の候補者は、保守系(自民党)が1人、革新系(社会党)が1人、そして全ての選挙区で必ず候補者を出す日本共産党が1人と、毎回のように3人。実質的に保革一騎打ちとなり、これまた毎回のように保守系が勝利する歴史が長く続き「保守王国鹿児島」の面目を維持した。

 二夫やミヨ子たちは、当然のように保守系の候補者を支持した。もちろんわたしが「誰に入れたの?」と聞いたわけではもないが、選挙間近にわが家を訪れる人の動き、両親の言動からそう確信した、ということである。

 そんな選挙行動自体は悪いことではないと思う。結果的に自分たちが望ましいと考える社会に近づけば「清き一票」は報われたことになるのだから。

 ただ、第一次産業がどんどん疲弊し農村が縮小していった変化を振り返るとき、ほんとうにミヨ子の「清き一票」は有効に働いたのだろうか、と思わなくもない。

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