文字を持たなかった明治―吉太郎14 明治の学制について②

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に庶民の暮らしぶりを綴ってきたが、新たに「文字を持たなかった明治―吉太郎」と題し、ミヨ子の舅・吉太郎(祖父)について述べつつある

 小さな農村の農家に6人きょうだいの五男として明治13(1880)年に生まれた吉太郎は、学校に行けず読み書きができなかったが、当時そんなケースは珍しくなかった。

 そこで明治初期の学制について見てみたのだが、本項ではその続きと、就学状況について考えてみたい。

 明治期は時代の変遷と要請により学制が頻繁に変更されている。吉太郎と同年代の子供たちが初等教育を受けていたであろう明治25(1892)年頃の学制は下図の通りだ。

文部科学省「学制百史」学校系統図より

 義務教育に相当する尋常小学校は4年制となり、卒業後は高等小学校へ(その他の道もある)、さらに尋常中学校や高等女学校へ進むなどの選択もある。

 これを遡る明治14(1881)年頃の学制では、初期の「尋常小学」はなくなりいったん「小学校(初等科・中等科)」になるのだが、その後「尋常」の名称が復活している。

 いずれにしても、吉太郎は学校での学びとは無縁で、近所の同じような子供たちと遊び回るか、家の働き手の一人として農作業に加わる毎日だったと思われる。そしてそんな子供は、地方の農山村、漁村はもちろん、町なかでも生活が豊かでない家庭ではさほど珍しくなかったはずだ。

 統計によれば、学制施行直後明治6年の就学率は約28%(男児約40%、女児約16%)。これは全国平均なので、都市部はこれより高い一方、地方、ことに農山村や漁村ではかなり低かったと推測される。

 明治後期になると就学率は上昇し始める。これは明治33(1900)年の小学校令改正によって授業料徴収が廃止され、学費の自己負担がなくなったことがいちばんの要因だが、明治の経済発展から大正の第一次世界大戦景気までに日本が豊かになり、子供を学校に通わせる程度には余裕ができたという社会的背景も関係している。

 とは言え、地域差、家庭差は当然ある。地域別の統計を探すと、明治14(1881)年時点(吉太郎が生まれた翌年)の鹿児島県の就学率は約30%しかない。一方で、都市部や中京地区などの工業発展地域の就学率はかなり高くなっている(例:群馬64.3%、大阪60.0%。滋賀58.6%、長野57.4%、岐阜57.1%、愛知56.3%)。鹿児島県の場合、就学率は30%程度の期間が長く、明治26(1893)年にようやく半数近くに達している(49.8%)。

 まして小さい農村の就学率、ことに裕福でない農家の就学状況は推して知るべしだろう。

《参考》「明治の学制について①、②」の参考にした主な記事等を感謝とともにご紹介します。今後も適宜参照させていただく場合があります。
文部科学省>学制百年史 
文部科学省>明治6年以降教育累年統計
明治時代の義務教育の浸透 - 井出草平の研究ノート (hatenablog.com)
明治中期の地域別就学率の推移と地域再編(玉井康之/岡山大学経済学会雑誌)
鹿児島市史

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