文字を持たなかった明治―吉太郎97 耕運機に乗る

(「96 耕運機を買う」より続く)
 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語である。

 昭和30年代の初め、吉太郎一家は耕運機を購入した《URL979》。倹約家の吉太郎自身は気乗りしなかったが、一人息子の二夫(つぎお。父)が主導して決めた。

 開墾が終わって幼木を植えたミカン山へも、それまでのような徒歩ではなく、二夫が運転する耕運機の荷台に家族全員が乗って行くようになった。70代半ばになった吉太郎も山まではいっしょに行き、ミカンのでき具合を眺めたり、軽い作業の合間にタバコをふかしたりして過ごした。

 もちろん耕運機の荷台に人を載せるのは道路交通法違反だが、家庭の足といえばオートバイがせいぜいで、自家用車など夢のまた夢だった当時の農村にあっては、耕運機はなんでも運べる便利な乗り物だった。もしかすると当時でも交通違反だったのかもしれないが、農村の道路を取り締まる警察などいなかったし、耕運機を買ったどの農家もそうしていた。

 耕運機が家に来てからは、吉太郎の目には作業効率が驚くほど上がった。ミカン山もそうだが、田んぼや遠くの畑に行くのもずっと速くなった。何より、物の運搬が大量にできるようになった。

 それまでは、ちょっとした量なら人が背負って運んでいた。少し多めなら一輪車で運んだ。もっと多いと牛に引かせる荷車に載せた。いずれも人が歩く速さだが、牛は道端の草を食べたりするから、往々にして人が歩くより遅くなった。

 二夫が二輪車の免許を取ってオートバイを買ったのもこの頃だ。

 オートバイなら人が走るよりもはるかに速いが、荷台をつけるわけにいかないので運搬の役には立たなかった。ただ、急ぎの用で誰かを訪ねたりどこかへ行ったりするには、オートバイが活躍した。

 農作業に機械を入れるのは反対だった吉太郎も、機械の便利さを認めないわけには行かなかった。それに吉太郎自身が、何かを担いだりはもちろん、遠くまで歩くのが少しずつ大儀になりつつあった。
(「98 牛歩」へ続く)

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