文字を持たなかった昭和 百三十二(野良のお弁当)

 母ミヨ子が昭和40年代前後に作っていたお弁当について続ける。

 近くの畑や田んぼでの農作業のときお昼は家に帰って食べるときもあったが、お弁当を持っていくこともあった。これについては「七十九(田植え、その四――ミヨ子)」で触れているとおりだ。食べ応え優先で、おかずはご飯のまさに「添え物」という役割だった。

 ミヨ子が嫁いできたばかりの昭和30年頃に家族総出で開墾したミカン山は、数年後から実をつけるようになり、季節がくれば他の農作業の合間に、手入れや収穫に出向かなければならなかった。

 家からミカン山の入口までは遠くなかったが、段々畑ふうのミカン畑には斜面を上っていかなければならないので、ミカン山へ行くときは決まって昼食持参だった。だいたいは、いつものようにごはん中心のお弁当を持っていったが、たまに現地で調理することもあった。

 と言っても、当時普及し始めたインスタントラーメンである。

 やかんや鍋、ちょっとした食器などはミカン山の小屋に置いてあった。山に流れている湧き水を鍋に汲む。そのへんにある石を組んだかまどに鍋をかけ、これまた山に落ちている枯れ木を拾ってきて、火を起こす。湯が沸いたらラーメンを袋の説明通りに作る。大人一人一袋分ではなく、水を多めにし少し長めに煮て麺が伸びぎみになるように作れば、節約できた。

 もちろんその分味は薄くなるのだが、それで文句を言うような家族はいなかった。本来温かいものなどないはずの野良の昼ごはんで、できたての麺類を食べられ、目新しさもあって喜ばれた。

 男衆はさすがにラーメンだけではお腹がもたなかったはずだから、舅の吉太郎と夫の二夫(つぎお)の分くらいはおにぎりを持って行ったかもしれない。

 子供たちが物心ついてからは毎日のように、幼稚園や学校に行くようになってからも日曜日にはほとんど田んぼや畑、山へ連れて行った。 下の子であるわたしにとっては、ミカン山で食べたラーメンの記憶は鮮明だ。具と呼べるようなものもほとんど入っていなかったが、家族でひとつ鍋を囲んだこと、外で調理したことなどが深い印象として刻まれているのかもしれない。

 コロナ禍もあって、巷では「アウトドアクッキング」「キャンプめし」などがもてはやされている。ミカン山のラーメンは、そんな「おいしい食事」「楽しい食事」のバリエーションのようなものではなく、働くための一食ではあったが、普及し始めた便利な食品で、ある意味手を抜きかつ家族を喜ばせようと、ミヨ子が知恵を絞った一案だったかもしれない。

 あれよりおいしいラーメンに出会ったことがはない、とはとても言えないが、滋味に似たものを、少しの切なさとともに思い出す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?