最近のミヨ子さん(今年初めてのビデオ通話)

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴ってきた。たまに、ミヨ子さんの近況をメモ代わりに書いている。

 前項(いよいよ?)では、最近のミヨ子さんの状況や同居する兄夫婦とのやりとりから、いよいよ施設入居を具体的に検討する時期か? と考えたことを書いた。

 が、想像で心配ばかりしていてもしかたがないので、義姉に電話する。
「何かあった?」と義姉。
「兄貴がメッセージにあんなこと言ってきたし、お義姉さんも珍しくしんどそうなこと書いてあったから…」
と、おずおず告げると
「あー、お兄ちゃんがいきなりあんなメッセージを送るから、また二三四ちゃんが心配するなー、と思ってた。私が書いたことは、もう日常よ。毎日同じことを繰り返して言うのは、やっぱりきついわよ」

 話をまとめると、何か急に大きな変化があったわけではないと言う。生活は今までどおり、ただ、できなくなることが少しずつ増えているのも確かなようだ。認知機能の低下は続いていて、直前の記憶はほんとうにおぼつかないし、古い記憶も順序だって出てくるわけではない。デイサービスへの持ち物も、以前は自分で準備していたが、いまは義姉が揃えてやっているそうだ。

「でも、食欲はあるし、体は丈夫よ。100歳(まで生きるの)は確実よ」
そう言われると、うれしいような申し訳ないような気持ちになる。体がある程度動くから、要介護度も上がらない。つまり手頃な料金で入れる施設への入居のハードルも上がるのだ。

 ミヨ子さんが実家から兄の家に身を寄せたきっかけは、大型台風接近による緊急避難が目的だった。もともと古かった家屋の屋根の一部がその台風でふっ飛び、修理して住むのも難しい、という判断からなし崩し的に兄たちとの同居が始まったのだ。そこからかれこれ10年くらい経つ。

 最初は同居だったものが、だんだん見守り、介助へ進んでいっているのに、ちゃんと面倒を見てくれているお義姉さんには頭が下がる。そろそろ「解放」してあげたいが、「先立つもの」がそれぞれ十分ではないという「高齢化社会あるある」。当事者には厳しい現実でもある。
 義姉と電話ついでに、ミヨ子さんとビデオ通話させてもらった。

「お正月、どうだった?」とミヨ子さんに訊くと
「どうということもないよ」だって。そりゃお義姉さんに失礼だろ、と思いつつ
「ごちそう食べたでしょ」と重ねると
「ごちそうは食べたけど、四十九日がまだだから、って…」
どうやら、同居していたお義姉さんのお母さんが一昨年亡くなったあとのこととごっちゃになっている。
「それに、お正月と言っても一人であちこち出かけられるわけじゃないからね」
とぽつり。そもそも、新興住宅地みたいな兄の家の周辺には、知り合いは誰もいないし、訪ねていけるような場所もない。

 ひとしきり、ちょっとちぐはぐな会話を続けたあと
「また会おうね」とお決まりの一言で締めくくろうとしたら
「そうね、元気なうちに会っておかないとね」と返された。
どんな状態でもいい。話せるうちに話して、会えるときに会っておかなければ。わたしの近年の課題のひとつでもある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?