文字を持たなかった昭和502 酷使してきた体(14)「へっが痛か」

 昭和の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を軸にして庶民の暮らしぶりを綴っている。
 
 しばらくはミヨ子の病歴や体調の変化などについて記していく。もともとあまり丈夫でなかったこと、体にあった病気などの痕跡、体にも影響を与えたであろう心配性とそこからくる不眠などに続き、働き盛りを過ぎてからの状況として、自転車で転倒し右手がうまく使えなくなったことと、子宮がんのため子宮を全摘したことを書いた。
  
 いずれも60代のことだが、もっと若い頃からよく口にしていた不調もあった。
「へっが痛か」(へっが痛い)

 noteで鹿児島弁について書くときしばしば参考にさせてもらっている「鹿児島弁ネット辞典」を確認すると、「へっ」は「へき」が促音化したもので「肩凝りのツボ(肩甲骨の内側で、第7胸椎との間の深部)。肩から背中にかけての部分。」とある。語源については「肩凝りを表す痃癖(けんぺき)が由来か?」と「?」つきだ。

 しかしあれは肩こりだったのだろうか?

 娘の二三四(わたし)が記憶する限り、「へっが痛か」としばしば口にする大人はあまりいなかった。だから、ミヨ子が「へっが痛か」と言ったとき、子供だった二三四は「<へっ>てどの辺り?」と訊いたことがある。ミヨ子は背中の、肩よりかなり下のあたりを指して「このへん」と答えた。

 ミヨ子たちの集落はほとんどが農家で、一年四季どの家も同じような農作業をしていたから、肩がこるような作業が集中する季節だったら、周囲の大人の多くが「へっが痛か」と口にしていたはずだが。もっとも、当時の農作業の多くは肩も腕も腰も膝も痛くなるようなものばかりではあった。あまりにあちこち痛むので、いちいち「痛い」と口に出すことはなかったのだろうか。

 ミヨ子は「へっ」の痛みが激しいとき、二三四に「サロンパスを貼って」と頼むこともあった。肩はともかく背中のほうは自分ではうまく貼れないからだ。二三四は「富山どん*」の薬箱を持ってきて「〇〇パス」――商品名はサロンパスではなかった――のフィルムを剥がし、「このあたり?」と指でなぞった場所にそれを貼った。

 ほどなくメンソールの成分が浸透し始めるのだろう、ミヨ子は
「よかあんべ、おおきに」(いいあんばい、ありがと)
と息をつくのだった。

 二三四も高校生の頃から肩こりだったからわかるのだが、背中まで痛むことはほとんどない。ミヨ子の「へっ」の痛みの原因は内臓の不調だったのではないかとも思う。「もっとも、当時の農作業の多くは肩も腕も腰も膝も痛くなるようなものばかりではあった」から、もしかするといくつかの原因が絡まった痛みだったのかもしれない。

*富山どん:「富山殿」の訛り。富山から年に1、2回置き薬の交換に来る薬の行商を地域(おそらく鹿児島全域)では「富山どん」と呼び、置き薬そのものを呼ぶこともあった。富山どんについては、まだ独身だったミヨ子が結核の治療を受けたことを述べた「二十五(恩人、Y先生)」に、補足として詳述している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?