文字を持たなかった昭和 二十五(恩人、Y先生)

 佐賀の紡績工場で結核を患いやむを得ず帰郷したミヨ子が、隣り町の病院に入院、療養したことは書いた。入院先のY先生についてはわたし自身もいろいろな思い出があるので、ミヨ子のストーリーからは逸れるがちょっと書いておきたい。子供の目で見た昭和40代、せいぜい50年代初めまでの記憶である。

 Y医院は個人病院だった。母ミヨ子が入院していた当時のままではなかったはずだが、住民に信頼されている様子からは、地域に根差し長く診療を続けている様子が子供心にも伝わってきた。医師はY先生ひとり、看護婦さんも何人もいなかったと思う(当時看護に携わるのは女性だけだった)。病院の建物も大きくはなかった。医薬分業制度が始まるはるか以前のこと、病院の中で薬も処方していた。

 わが家では、外科以外の病気はまずY医院に行っていた。ただし、民間療法や「富山どん」と呼んでいた富山の置き薬(※35)でも回復が難しそうな場合だが。きょうだいは3学年違いの兄とわたしの二人、二人いっしょに掛かることはなく――少なくとも記憶にない――それぞれが別の病気で診てもらうことがほとんどだった。

 Y先生は、私が子供の頃すでに初老の風情で、いまでいうロマンスグレーの髪をオールバックにし、眼鏡を架け、白髪交じりの鼻髯をたくわえておられた。髯はいつもきれいに整えられていた。子供から見ても背はあまり高くなかったが、だいたいは座って診察されたので、立ち姿の印象がないのかもしれない。診察室に入りY先生のやさしい風貌と穏やかな語り口に触れた瞬間に、病気はもう治ったようなものだった。

 子供の頃のわたしはよくお腹を壊した。何を食べたか、どんな状態かなどは、付き添っている母親(ミヨ子)が説明した。聴診器を当てられたあと、診療台に寝かさてお腹のあちこちを押された。「ここは痛い?」「ここは?」と聞かれてのひととおりの診察が終わったあと、子供にはよくわからない病名が告げられた。

 Y先生は、わたしには「ごはんはおかゆを食べなさい」と言うのが常だった。それから「ヤクルトは飲んでいいよ」と付け加えることも多かった。お腹を壊して「またおかゆだけかー」と内心落胆しているところへ、「ヤクルトはいいよ」の一言は、地獄に仏の気分だった。

 風邪がひどくなって診てもらうこともあった。「あーんして」とY先生に言われて口を開けると、消毒液に漬けられた金属製のヘラで舌が押えられた。ひんやりした感覚と消毒薬の匂いを感じている間に、喉の奥が懐中電灯で照らされた。たいていは「扁桃腺が腫れてますね。吸入して帰りなさい」と言われた。

 そのあとは看護婦さんに処置室へ連れて行かれ、吸入器の前に座らされる。服が湯気で濡れないよう胸に小さなエプロンを掛けられて、吸入が始まる。コップの底を抜いてこちら側に置いたような吸入器からは、少し薬の匂いがする湯気が盛んに出てきている。その湯気を喉の奥に当てるように吸い込むのだ。子供の小さな口では湯気を全部吸い込むことはできず、口の周りはもちろん顔まで塗れた。吸い込んだ湯気は口の中で水になった。水にはなんとも言えない甘さがあり、顔が濡れるのは困ったが吸入は好きだった。

 だから、風邪で行ったのにY先生が吸入を処方しないときはがっかりした。それでも「Y先生の見立てだからしかたない」と子供心に諦めた。

 あとで考えれば、「Y先生の見立てだから」は母親の口癖でもあった。結核の入院治療のことを本人から聞いたのはわたしがかなり大きくなってからだったが、ミヨ子が「病気のときはY先生」と決めていたのは、難病だった結核を治してくれた、命の恩人ともいえる先生への信頼ゆえだろう、といまになって得心する。Y医院でなくても、ミヨ子の医師への絶対的な信頼は揺るがず、「病院信仰」と言えるほどちょっとした不調でも病院へ行きたがり、いまに至っている。その心理はY先生への絶対的信頼が培ったものかもしれない。

 Y先生がお年を召されるのに合わせるかのように、わが家から比較的近いとろこにも新しい病院ができ、Y先生に診てもらう機会はなくなった。いまでも、帰省のついでに隣り町に行く機会があればY医院の辺りを歩いてみることがある。Y先生はとうに亡くなりY医院もなくなったが、先生のご子息が医師になり、同じ町の国道沿いに産婦人科の病院を開いている。その病院も開院からかなりの年月が経った。少子高齢化が進む中、そもそも人口減少が加速する地方にあって、産婦人科の経営も大変だろうと思うが、まだ運営されているようだ。

 母の命を救った医術が、新たな命の誕生と母子の健康につながっているようで、不思議な気持ちになる。

※34 薬箱に薬を詰めて置いておき、使った分だけ支払うという「富山の置き薬」は、鹿児島県の農村地帯で広く普及していた(漁村もそうだったのかもしれない)。わたしの記憶では、年に1、2回、薬屋さんが巡回に来た。記憶の最初の頃は、漢方薬に近い煎じ薬も含まれていた。農作業が多い土地柄のためか、傷薬や貼り薬も常備されていた。やがていまと同じような錠剤やカプセルも増えていった。子供には、昔は紙製の風船、その後ゴム風船といった「おまけ」をくれた。薬の値段は市販薬より高かったと思う。そのため、流通が整備され市販の薬が手軽に買えるようになると、置き薬の箱から薬を使う機会は減っていった。
 「富山どん」は「富山殿」の意味で、鹿児島弁の「どん(殿)」は身分や地位の高い人、教養のある人など、尊敬に値する人やその職業につける敬称。大河ドラマになった『西郷(せご)どん』の「どん」も同じだ。「富山どん」の場合、「富山から(薬を)売りにくる人」の総称で、薬のような価値の高いものを、しかも遠方の富山から売りに来る人に対して「殿」をつけたものと思われる。薬の一大産地だった富山への尊敬も含まれるかもしれない。
 ただし、まれに揶揄や皮肉としてわざと「どん」をつけて呼ぶこともある。

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