文字を持たなかった昭和360 ハウスキュウリ(9)設置
昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。
このところは、昭和50年代前半新たに取り組んだハウスキュウリについて述べていて、労働力としての当時の家族構成や、長男の和明(兄)を働き手として当てにできなくなったこと、ビニールハウスを建てることにした場所、その規模や構造などを書いてきた。
「規模」で触れたように、二三四(わたし)の記憶では5a(アール)ぐらいとけっこうな広さのビニールハウスを、土台や柱から設置するとなるとそれなりに日数と人手がかかったはずだが、そのあたりの経緯や場面は思い出せない。二三四が学校に行っている間に――たぶん週末を挟まず――完成してしまったからか、見に行こうと思わなかったのか。
二三四のふだんの行動からすると、親が新しい事業に取り組むときに知らぬふりを決め込むことはまずなく、むしろ何かしら手伝おうとしたはずだが、いちおう高校受験を控えていたので、二夫(つぎお。父)やミヨ子が「あんたは来なくていいから」と言ったのか。
あるいは、けっこう大型の新しいタイプの施設を計画通りに作り上げるには、素人考え、素人仕事では無理で、「営農指導」する農協の人も手伝って、ほぼ玄人だけで建ててしまったのか。おそらくはこっちのほうかもしれない。
ミヨ子は、働いてくれる人たちのために、10時と3時のお茶を運んだはずだ。その合間に、現場の片づけもしただろう。そう言えば、お昼はどうしたのだろう。この場合、昼ごはんはハウスを建ててもらう側が手配したと考えるのが自然だが、田植えの手伝いに来てもらった人たちにふるまう日の丸弁当と同じわけにいかなかっただろう。
二三四が気づいたときには、真新しい大型のビニールハウスが、地域の広い水田地帯の一角にどんと建っていた。
天井は高くはないものの、大人でも立って作業するには十分で、支柱だけで仕切りなどはない内部は、体育館のように向こうまで見渡せた。中ほどには、うんと寒い時期に重油を焚いてハウス内の温度を上げるための設備も置かれた。
ビニール張りの「トンネル」でスイカを促成栽培していたときとは仕様が全然違うことは、ミヨ子にはもちろん、中学生の二三四にも明らかだった。ついでに、かかっている費用がスイカのときとは桁違いであろうことも。
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