昭和の?習慣(白湯)

 先日テレビの情報番組で「白湯活(さゆかつ)」を取り上げていた。ご存知の方も多いと思うが、白湯活とは白湯の飲用を生活に取り入れることであり、白湯とはもちろんふつうの水を沸かしたものである。白湯活ブーム(?)が先か商品が先かはわたしにはわからないが、自販機やコンビニでも手軽に買えるほど白湯が出回っていることも、番組では取り上げていた。

 書いていてちょっと恥ずかしいほど、白湯は当たり前にあるもので――だから「ふつうの水」とあえて書いた――それを「生活に取り入れる」姿勢もちょっと鼻白むというか、「わざわざ?」という気分になる。

 この気分をうまく表してくれたのが、コメンテーターとして出演していた元大阪府知事・大阪市長で弁護士の橋下徹氏の一言だった(だいたいの趣旨)。
「ミネラルウォーターが普及しはじめた頃、親父が『なんでただの水を金出して買うんだ』って言ったんだけど、そのときの親父の気持ちがわかりますよ」
橋本氏の気持ちも氏のお父さんの気持ちも、わかる。

 昭和の半ばくらいまで白湯は生活の中に、まさに「ふつうに」あった。

 いちばん活躍したのは、薬をのむときではなかっただろうか。生の水ではよくない、やはり一度沸かして少し冷ましたお湯でないと、という暗黙の了解が大人たちの中にあったと思う。子供だったわたしはそれを疑いなく受け入れた。

 住んでいたのが農村地帯で、わが家を含め井戸水を使う家庭も多かった。汲み上げただけの水を直接飲むこと自体にリスクがあったのだろう、水として飲むときは「湯冷まし」にした。そう言えば、上水道が普及するまで――いつの時代だと思われそうだが――遠足の持ち物の項目には、「水筒(湯冷まし)」と書いてあった。

 そういった習慣は、上水道がほぼ完全に普及するにつれて薄れ、橋本氏ではないがミネラルウォーターを日常的に飲むようになってからはさらに遠のいた。上水道にしても料金を払うわけだから、まさに「金を出して水を買う」時代に移行したとも言える。

 白湯として飲んだとは言えないかもしれないが、わが家では両親ともご飯のあとご飯茶碗にお湯を注いで少したってから飲んでいた。お茶碗についたご飯粒や粘りをふやかして飲むのだ。ただ、子供心になんとなく受け入れがたく、その習慣をわたしは受け継がなかった。

 しかし長じてから中華圏と行き来するようになり、一般家庭で食事に呼ばれた機会に、食べたお茶碗にお湯を入れて「仕上げ」にする様子を見たときは、なんとも懐かしかった。国が違っても庶民の考えることは似ているのかもしれない。それに、中華圏の一般家庭では多くの場合取り皿を使わずご飯をよそった茶碗におかずを載せて食べるので、お茶碗にはおかずの味や油まで残っている。ただし、どのご家庭でもそうするとは限らず、どちらかと言うと庶民層のしかも若いころご苦労されたと思われる年代の方に多かった印象がある。

 そもそも、茶葉、ましてコーヒーなどの嗜好品がふんだんに手に入らなかった時代の庶民にとって、水を一度沸かした白湯はいちばん安全で、体も温まる飲み物だったことは想像に難くない。炊事のついでに、日本なら囲炉裏などでお湯を沸かしておけば体を温める飲み物が比較的手軽にとれただろう。夏場はそれを冷ましてもおいただろう。

 冒頭で触れた番組では、自身も白湯活をしているというヘルスアドバイザーだかの女性が
「白湯ならお茶やコーヒーのように歯に色素がつくこともありません」
と言っていた。白湯をよく飲むという若い世代へのインタビューでも同じコメントがあった。「カフェインが苦手なんです」という人もいた。

 もっと豊かに、もっと選択肢を多く、と願いながら人類は進んできたはずだ。飲むものにしてもしかり。そして行き着いた先が「ただの水を沸かして飲むのが体にいい」という生活とは、皮肉にも滑稽にも思える。白湯に限らず、なぜもともとそうしていたのかをいろいろな角度から分析してみるのも、情報ではなく「知恵」について考える意味で、意義があるかもしれない。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?