文字を持たなかった昭和381 昼寝、おまけ

 昭和中期の鹿児島の農村。昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 ミヨ子たちが昭和50年代前半に取り組んだハウスキュウリを28回かけて取り上げたあと、つぎのテーマを決めかねるまま、前項では夏にちなんで当時の農家、というかミヨ子たちの昼寝について書いた。あとから思い出したことがあるので、おまけとして補足しておきたい。

 ミヨ子が嫁いだ先の屋敷〈168〉は、裏手(北側)からの風が夏でも涼しく、昼寝には好適だったことは書いた。

 やがて、屋敷を建てた(買った)舅の吉太郎が昭和45(1970)年に亡くなり、夫の二夫(つぎお。父)が家の中心になって数年、昭和48(1973)年頃に建屋の一部を改造して当時の「いま流行り」を取り入れた。

 表側の出入り口をアルミサッシの玄関にした。土間だったところは床を張って居間とし、台所まで板張りでつなげた。居間にもアルミサッシの掃き出し窓をつけた。台所には、いまでいうシステムキッチン、ステンレスの流し台が据えられた。以前は台所の土間と続いていた風呂場も囲いやドアを作り、洗面台を入れた。子供部屋も、簡単ながら建て増しする形でこしらえた。

 北側の背戸のガラス戸を開ければほぼ筒抜けでだった和室の一部に廊下を設け、元々外にあったお手洗いをその先に移し、家の中から直接トイレに行けるようにした。つまり「内便所」である。

 この改装で、背戸からの風の流れが変わってしまった。全体に風が抜ける構造ではなくなったのだ。納戸の位置は変わらなかったが、涼しくはなくなり、むしろ空気がよどんだ感じになった。

 それでもミヨ子は、表側での昼寝は避け、納戸で横になっていた。二三四(わたし)は、兄と共用ながら子供部屋をもらったわけだが、ベニヤ板で囲い、簡単な屋根をつけた程度の部屋の暑さには耐えきれず、結局納戸近くの和室まで来て、背戸を放って昼寝した。風の流れが変わったとは言え、やはりここが比較的涼しい場所だったから。

 その後、姑のハルが昭和53(1978)年に亡くなると、ミヨ子にもようやく「一家の主婦」の地位が授かり、昼寝の場所にも概ね遠慮しなくてよくなった。「概ね」というのは、玄関側の部屋はやはりNGだったことと、二夫がいるときは気楽に寝転んではいられなかったからだ。

 それでも、昼食後などに「ちょっと休もうかね」と居間の食卓の近くでごろりと横になるミヨ子は、以前よりはずいぶんとリラックスしているように見えた。

〈168〉子供たちが小さかった頃迄の屋敷の配置などについては「八十一(屋敷)」に詳述。

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