最近のミヨ子さん(ビデオ通話④「役」)

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台にして、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)の来し方を中心に、庶民の暮らしぶりを綴っている。

 母の近況のメモ代わりにビデオ通話の様子を書いているが、通話の際気になったことを記しておく。「ビデオ通話④」のときのことである。

 帰省の予定についてひとしきり話したあと、わたしが「お母さんは(旅行などで)外で泊まったことなんか滅多になかったでしょう」という趣旨のことを言ったのだと思う。ふいに、母が話し出した。
「えーー、そりゃあもう。遊びに行くなんて全然なかった。いつもじいちゃんと二人で畑に出てたよ」

「え? なんでおじいちゃんと二人なの?」とわたし。
「父ちゃん(夫、わたしにとっての父)はいつもいなくてねぇ。よく出かけてたからね。いろんな『役』をやってたから、それもあったんだとは思うけど。昼間から出かけて、その間はじいちゃんと働いてた。そして父ちゃんは、夕方になってから帰ってきたりね」

 母が「役」と呼ぶのは、集落や地域の世話役、農協の役員といったボランティアのことだ。小中学校のPTAの役員も含むだろう。昼間の会合などに時間のやりくりがつくような職業は、自営業か農業、漁業だが、わたしたち兄妹が子供の頃には農家も兼業が増えて、地域のボランティアを買って出るような時間的余裕のある人は、かなり少なくなっていた。個人の性格もあるから、誰でもやってくれるわけではなかった。

 そういった「役」は、会社勤めなどで時間が作りにくい人たちから押し付けられ断れなかった面もあっただろうが、他者から頼りにされること、人に喜ばれることを父はむしろ喜び、買って出ていたように、子供心にも映った。

 が、父がそうやって人のために無償で働く時間の代償は、もちろんほかの家族が負わなければならなかった。

 もちろん父が働かなかったわけではない。わたしの記憶の中では、ある時期を除けば〈179〉勤勉な専業農家だった。「役」のために時間や手を取られるのは毎日ではないし、終日出かけるわけでもない。ただ、いろいろな「役」を次々と請け合っていたのはたしかだ。そしてそこから派生するつきあい――寄り合いと称する飲み会や、手土産のやりとり、冠婚葬祭などなど、現金支出をも伴うものを含む――がついて回ったのもまた、事実だった。そのためのやりくりは、結局母がつけざるを得なかっただろう。 

 そんなマイナスの思い出がないまぜになり、仕事は「じいちゃんと二人」に押し付けられた、という印象として残っているのかもしれない。

 だいたい、昭和45(1970)年に92歳で亡くなった祖父が現役並みに働いていたのは、せいぜい昭和30年代前半ばまで、両親が結婚してから10年もなかったはずだ。祖母は祖母で、かなり高齢になるまで田畑に出ていた。ただ祖父は(祖母も)厳しい人だったから、父が不在のとき、嫁としてつらい思いをしたことがあったのかもしれない。

 ひとくさり愚痴ったあとで母は
「でもS(隣の集落名)の、誰さんだったかね、……思い出せないけど、父ちゃんをいつも褒めてねぇ。外では立派な人だったんだろうけど」
と付け加えた。

 これまでここ(note)で何回か触れているように、父の生涯についてもいずれ改めて書くつもりでいるが、母について述べるとき、父やほかの家族との関係性に言及してしまうことも当然ある。母自身が語る話の中ではことにそうだ。それは、正確な記憶が崩れつつある老齢の母の心の中、ことに苦悩を、図らずも覗く作業でもある。

 正確な事実関係はわからなくても、母がそう感じ、そういう印象を持ち続けていることの意味を、わたしなりに読み解くことも試みてみたいと思っている。

〈179〉昭和50年代半ばに挑んだキュウリのハウス栽培に失敗したあと、父は経営の方向性を定めきれずにいたように思う。キュウリ事業については「ハウスキュウリ(1)始まり」「ハウスキュウリ(28)夢の跡」

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