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社会的ストーカー行為について

映画「スノーデン」を見た。目的は、主演のジョセフゴードンレヴィットだ。彼は本当にかっこいい。初監督作品の『ドン・ジョン』はかなり微妙だったけど、それでも才能を感じる。「胸にイチモツ抱えてまっせ」という演技も素晴らしい。

で、スノーデン。アメリカ合衆国政府が、国民及び世界中の人々の言動を、電話回線やらインターネットやら、ドローンのカメラやらを駆使して監視してますよ、というお話。ニュースでもかなり話題になったので、今更この事実に驚く、ということはないけれど、その手法にはかなり驚かされた。嘘か本当かはわからないけれど、ラップトップのインカメラを通して、部屋を盗み見たり、ひとりの人間をピックアップすれば、その周辺人物(誰と仲いいか、誰とヤリそうか、過去の恋愛関係など)も瞬時に判明、そして何か違法行為をしていないか、「ゆすり」に使う材料はないか、、、などを洗い出せるのという。

こういった「監視」行為の存在を知ると、たいていの人は憤るだろう。社会主義じゃあるまいし、国家がこんな犯罪まがいのことをしていいのか、と。そう、盗聴や盗撮は、「社会」においては「犯罪」である。それを「国家」がやっていた。だからスノーデンは全てを捨てて(結果恋人は戻ってきたわけだから、全てを失ったわけではなかったが)、告発をしたし、かなり世界を震撼させるニュースとして世論を揺るがせた。

だ、け、ど。

国家が組織的に行っている事を確認しようがない。私のような小市民の日常なんて見てもどうにもならんし、見られても問題ない(裸や恥ずかしいシーンを除く)。あるいは、見られているはずがない。覗き見されたことが公開されなければいい。

こんなふうに考えている人が大半なんじゃないか。はたまた、「安全を確保するためならば、犯罪やテロを未然に防ぐためならば仕方ない」と考えている人が多いのではないだろうか。個人情報に関しても、「名前や電話番号、職業を知られたぐらいではたいした害はない」と考えている人が多いように。

でも、これってすごく怖い事だなと思う。「盗聴オッケー」というサインを国民が出してしまえば、あるいは黙認してしまえば、それは「社会状況」がどのようなものになったとしても「オッケー」なのである。極端な話、飲酒運転の撲滅のためという名目で、ランダムにスマートフォンを介して盗聴して、飲酒をほのめかす発言をした人を即座に逮捕する、みたいな。ロリコンがネット上でロリータと検索した時点で最寄りの交番から保安官がやってくるみたいな。そういう状況になるのは当然の結果だ。

でも、それで犯罪者が減るならいいじゃないか。と思う人も少なくない気がする。それがめちゃくちゃ怖い。それこそ、監視社会の始まりだ。自由なんてものは、決められた、ごく狭い範囲内のものになってしまう。ジョークを飛ばす事もできなくなるし、「思ってもみない事をついうっかり言う」なんてことは、自分の身の危険につながる。

監視社会というのは、自分の行動や発言に最新の注意を払わなければならない。それってものすごく窮屈だと思う。うっかり犯罪を犯す事もあるよね、とかそんなことを言っているのではなくて、私たちの頭の中は一律じゃなくて、色んな事を考えて、色んな可能性を想定して、色んな話をして、そうやって自分の中の「倫理」を作り上げていくし、社会での「生存戦略」を練っていく。少しでも反社会的な事、インモラルなことを発言しただけでマークされ、その後「捕まえるチャンス」を虎視眈々と狙われるような世の中は、どう考えても「一本のレール」の上しか進めないような世界だ。怖すぎる。

この前も「真島昌利にノーベル賞を」の記事で書いたけれど、犯罪を「監視」や「抑圧」によって防ぐのはナンセンスだ。大学で文系の学部をなくせ、というようなご意見も散見されるご時世だけれども、科学技術の革新を追い求めるだけではなく、「人間性」の向上をもっと真剣に追い求めてもいいんじゃないのか?テロや犯罪に対しての「平和的解決方法」について、もっと深く考えないといけないし、考えるだけではなくてどんどん実行していかないと、スノーデンの見た世界は延々続いていくんだろうなあ。



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