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「東京恋物語」第二話:迷宮の中へ

爽やかな風とともに、桜の花びらが路面に舞う午後の青山通り。
赤坂郵便局を右折し、六本木交差点へ向かう白いベンツは、ゆっくりとスピードを落とし、左に見えるオフィスビルの玄関口で停まった。そこには、宮野浩介が経営するIT会社、エムケーフォースが入居している。
専属運転手の坂本憲次は、車を降りると手なれた動きで、後部座席のドアを開けた。そして間もなく、待っていたかのように、白いピンストライプが印象的な濃紺のスーツを着こなした細身の男性が、携帯電話を耳にあてながら現れた。宮野である。
「はい、今からそちらへ向かいます」
宮野はそう言いながら、車に乗り込むと電話を切り、坂本に経済産業省へ向かうように指示した。
「今朝の件は、大変失礼しました」
運転席から坂本が、後ろに座る宮野を意識して、肩を斜めに傾けながら詫びた。
「それより、奈々子の行方は分からずじまい、なんですね?」
今年で三十五歳になる宮野は、五歳ほど年上の坂本に対して、できるだけ丁寧語を使って会話をしている。というのも、宮野はポリシーとして、いつどこにチャンスが転がっているかわからないビジネスシーンでは、誰に対しても古風なしきたりを重視しているからであった。
「はい。実は・・・、新藤さんの乗っていたタクシー、私か昔いた古巣の会社だったものですから、つい感情的な運転になってしまいまして・・・」
「もともと、東京駅から乃木坂まで乗せて来てもらうだけの話が・・・、あらぬ方向に行ってしまいましたね」
「あっ、はい。大変すみませんでした」
「いや、坂本さんは悪くない。ただ、ベテランの坂本さんをスピンターンで振り切るなんて、たいしたタクシードライバーじゃないですか」
「そこも気になるところで、先ほど電話でお伝えしたとおり、そのドライバー、新藤さんが最近、新たに指名で使い始めた可能性もあるかと」
さらに坂本は、奈々子の乗ったタクシーが、都内でも数少ない富国自動車の最高級クラスであったことも付け加えた。
「確か、そのドライバーって、二十代半ばくらいの男性でしたよね」
「ええ、マスク姿ではありましたが、イケメン風の若い男性で・・・」
宮野は、坂本の言葉に軽くため息をついて、傍らに置いたブリフケースから書類を取り出したが、その視線は車窓の外に鋭く向けられていた。

宮野が経営するエムケーフォースは、ビジネス関連アプリを開発する新興IT企業である。その代表取締役である宮野は、埼玉県の公立高校を卒業後、コンピュータ専門学校に進んだ。その後、ゲーム制作会社へ就職したが、その間、独学で開発した女性専用アルバイト紹介アプリが大ヒット。そして独立後は、一躍、マスメディアから取材を受けるほどのIT起業家として、世間に注目される存在になった。
以来、さまざまなアプリをヒットさせてきたが、現在は、異なる特許技術を持つ中小企業同士をアントレプレナーとトリプルマッチングさせ、新商品をプロデュースする多機能型アプリを、経済産業省の支援を受けて開発している。
「経産省の打ち合わせは、おそらく一時間で終わります。その後は衆議院の議員会館へ行って秘書の方と面会、といっても面会はほんの十分間くらいですから、その後は二番町へ向かいます」
車はすでに、経済産業省の正門前に到着していた。
「はい、かしこまりました。では、いつも通り、赤坂オフィスの駐車場で待機しております」
坂本は、宮野の呼び出しまで時間がある場合、会社が所有する赤坂の自社ビルにある敷地内に車を停めているのだった。
「では、後ほどまた、お迎えにまいります」
坂本が後部座席のドアを開けながら、そう言うと宮野は、意味ありげな笑みを浮かべて、ゆっくりと車を降りた。

奈々子を乗せた車は、国道二四六号線を世田谷通りに入り、狛江市へ向かっていた。これは、祐太郎が何気なく世田谷通りに向けて車を走らせていた際に、突然、奈々子が狛江市に行くように指示を出したからである。というのも、明日土曜日には、狛江市役所の二階フロアと一階ロビーを貸し切って、奈々子が主役を務めるドラマロケが行われることから、その下見を兼ねて、そこまで足を延ばそうと考えたからである。そして、明日のロケは、収録最終日のクランクアップにあたる。ロケ地の下見など、したこともなかった奈々子だが、明日の最終ロケでは、何かが起こりそうな胸騒ぎとともに、自分を狛江市へと向かわせる、見えない意思を感じたからである。しかし、今の奈々子としては、そんな胸に湧き起こる不安感を、仕事に集中することで払拭したい・・・、そういった気持ちのほうが強かった。
祐太郎の運転する車は、都心を離れるにつれて、周囲の風景が、のどかな田園地帯や住宅地へと変わってゆく。車内の後部座席に座り、台本を読み込んだ奈々子は、セリフを口にしながら、それを覚える作業を繰り返していた。
「ブルルル、ブルルル」
奈々子の傍らに置いていた携帯電話が、着信のバイブレーション音を発している。
「もしもし、奈々ちゃん?いまどこ?ちょっと大変なんだけど。今朝、東京駅からまっすぐ自宅に戻ったんじゃなかったの?」
畳みかけるように話す声は、奈々子の所属する芸能事務所、グランステージの専属マネージャー、浅井由紀子だった。
「あっ、ちょっと予定を変更して・・・」
そう言う奈々子の返事を聞き終わらないうちに、浅井はさらに話し始めた。
「とにかく、奈々ちゃんの自宅、二番町だっけ。そこにマスコミの取材が押し掛けてるのよ。奈々ちゃんが失踪して行方不明だって・・・。どっからそんなバカげた情報が流れたのかなあ~もう。とにかく、私が今から現場に行って、デマだって説明するから。また落ち着いたら連絡するわね」
電話を切った奈々子は、何かしらの違和感を感じていた。通常、マスコミであっても個人宅前まで押し掛けるのは、それなりの信用できる情報源があってこその行動だ。
「たぶん、あの人の仕業ね・・・」
「えっ、どうかされましたか?いま、狛江市役所に着きましたが・・・」
祐太郎は、市役所の玄関前で車を停めると、後ろに座る奈々子へ振り向いて言った。
「ねえ、小嶋くん、この車、テレビ見ることって、できる?」
世田谷公園を出発してから、奈々子は祐太郎のことを、小嶋くんと呼んでいる。
「ええ、できますよ。スイッチいれましょうか」
祐太郎の車は、特別に富国自動車の最高級クラスを使用しているため、個人タクシー並みの装備がある。そして、その画面に現れたのは、午後のバラエティ番組で、そこには緊急速報のテロップが入ったうえ、新藤奈々子失踪という情報を伝えていた。
「これって・・・」
祐太郎は、次の言葉が出てこないほど驚いた。
そして、チェンネルを切り替えた別のバラエティ番組では、車内の小さなテレビ画面に、二番町の奈々子が住むマンション付近でレポーターからの質問に答える宮野の姿が、大きく映し出されていた。
「宮野の復讐が始まったってことね」
「えっ」
ふたたび後ろを振り向く祐太郎に、奈々子は続けた。
「小嶋くん・・・、今から、あなたの質問に答えてあげるわ」
奈々子はそう言って、深く息を吐いた。そして祐太郎は、前を向いたまま黙って次の言葉を待った。
「私が宮野と破局になった理由。それは、宮野という男の、裏の顔を知ってしまったからなの」
「裏の顔?」
祐太郎の反応をよそに、奈々子はさらに話し始めた。
「ごめんなさい、今は詳しい話をする時間がないわ。それより、宮野がこの騒動を起こした目的よ。恐らくこれって、私が別の男と恋仲になって、自分を破局の被害者に仕立て上げることだと思うの。もしかすると、今晩、小嶋くんが私を自宅に送り届けたところで、あなたが私の新しい恋人になるってことかもね。恋多き女っていう、レッテルを張るために・・・」
その話しに、祐太郎が慌てて後ろを振り向くと、奈々子は微笑みながら続けた。
「まあ・・・、それも、悪くないかな」
そんな奈々子を見ながら、祐太郎は、自分の頬が紅くなるのを感じていたが、頭の中は、冷静に別のことを考えていた。
「奈々子さん、今晩、どうしてもご自宅に帰りたいですか?」
「えっ」
奈々子も、いまの祐太郎の言葉に、ほんのり頬が紅く染まった。それは、祐太郎が自分のことを初めて、「奈々子さん」と呼んだことで、無意識に芽生え始めた恋心が、くすぐられたからであった。
「いや、変な意味じゃなくて・・・、明日の衣装道具とかの準備で・・・」
「それは・・・、まあ・・・」
そんな奈々子の、ぼんやりした返事にも、祐太郎は真顔で続けた。
「この先、世田谷通りを川崎方面に行くと、登戸という町があるんですが、そこで奈々子さんを見えなくして、ご自宅にお送りしますよ」
祐太郎は、奈々子を見つめて頷くと、前に向き直ってウインカーを点滅させたが、その後、急に何かを思いついたように、奈々子のほうへ振り向いた。
「あっと、その前に、この車の貸切料金、ここで精算していいですか」
「イ~ッ」
せっかくのムードが台無しと言わんばかりに、奈々子は冗談っぽく歯をくいしばって、しかめ面をしたが、その後すぐに頬をふくらませながらも、バッグへと手を伸ばし、素早く財布を取り出した。

一時間後・・・。
一台の黒いワゴン型寝台車が、世田谷通りを都心に向けて走っていた。車内のデジタル時計は、すでに午後五時をまわっている。          春の空に霞んで浮かぶおぼろ雲が、淡い紅色に染まっていたが、それもゆっくり濃紺色へと変化していた。
寝台車の運転席には、喪服のブラックスーツに着替えた祐太郎がいる。そして、その後ろには、木製の棺と並ぶ形で、同じくブラックスーツの男性が座り、奈々子は前の助手席に座っている。
「それにしても祐ちゃん、久しぶりだな。急な電話でビックリしたけど・・・、もっとビックリしたのは、超美人の有名女優さんが一緒だったとはね~」
後ろから話しかけるこの男性は、祐太郎が大学時代にアルバイトをしていた、金沢企画という葬儀専門の派遣会社で部長をしている江籐である。部長といっても、まだ三十代と若く、祐太郎が在籍していた時には、東京都内を出発し、最終の遺体引取り先まで長距離搬送をする業務を専門としていた。そして、その時、いつも江籐とペアを組んでいたのが祐太郎だったのである。かつて数回、大阪市内まで搬送するという、ロングドライブをしたこともあった。
「奈々子さん、マネージャーの浅井さんからは、何か連絡はありました?」
「えっ、ああ・・・そういえば、さっきメールが来てたわ」
ブラックスーツ姿で、イケメンの魅力を増した祐太郎を、助手席からじっと見つめていた奈々子は、ハッとした口調で答えた。
「まだマンション前には、報道スタッフが何人も残ってるらしいわ。たぶん、明日の朝まで見張る徹夜組ね」
奈々子はそう言うと、突然の出来事による気疲れからか、ゆっくりと目を閉じて、車の振動に身をまかせた。
祐太郎は時折、隣に座る奈々子の美しい横顔をちらっと見ながら、今朝からの偶然にして奇妙な、ふたりの出会いを思い返していた。そして、そのとき初めて、自分が奈々子のことを、いつの間にか、「奈々子さん」と呼んでいたことに気がついた。

車はすでに、国道二四六号線に入り、渋谷駅を通り過ぎて、青山一丁目へと向かっている。
出発前の打ち合わせ通り、この後は、青山一丁目から権田原交差点を右に折れて、赤坂迎賓館から四谷見附へと向かう予定である。そして、四谷駅前にあるロータリーで一時停車し、奈々子が助手席から棺の中に入り、そのまま二番町のマンションへ向かう段取りであった。申し訳ないが、奈々子にはしばらくのあいだ、成仏してもらうことになる。
車内のデジタル時計は午後六時を指していた。
「奈々子さん、四谷に着きましたよ。いまから、棺に移動しましょうか」
祐太郎の言葉に奈々子は、なぜか静かに黙ったままで、その指示に従った。また、江籐は後部座席から運転席に乗り込むと、何やら携帯電話で会社と話しを始めている。
「奈々子さん、頭に気をつけて、そう、大丈夫ですよ。ここに座って、それじゃあ、横になって・・・」
祐太郎は棺の横で、奈々子の背中に腕をまわし、ゆっくりその体を棺の中に寝かせようとしていた。そして、それは奈々子の上半身が棺の中に収まった瞬間だった。奈々子は突然、祐太郎の襟元に両手を回し、祐太郎の顔をじっと見つめながら、ゆっくり自分のほうへと引き寄せたのである。
「んっ・・・」
それはつまり、奈々子と祐太郎の唇が触れ合う瞬間だった。すると、ふたりは、まるで火が点いたように、お互いの唇を求め始めた。いま、ふたりの意識の中には、この時間や場所が存在していないかのように、より一層激しさを増しながら、お互いを求め合っていたのだった。

「え~、えっへん」
しばらくして、運転席に座る江籐の咳払いが聞こえた。
「あの~、お取り込み中すみませ~ん」
ようやく江籐の声が届いたのか、ふたりは、いまこの時間を名残惜しむように、唇を引き離し、お互いを見つめ合った。
「え~、それでは・・・、いざ出陣っと」
江籐はそう言うと、車をゆっくり始動させ、二番町へとハンドルを切った。
奈々子が入居するマンションは、麹町の日テレ通りから、一方通行を入った比較的細い通り沿いにある。とはいえ、高級マンションだけあって、玄関までの車寄せのアプローチはきちんと用意されていた。
奈々子の予想通り、周辺には、機材を路肩に寄せて折りたたみ椅子に腰かける報道スタッフらしき人影が多く見えるものの、騒がしい雰囲気はない。
江籐は、石畳のアプローチからマンションの車寄せに向けて、ゆっくり車を走らせた。
「ふうっ」
江籐と祐太郎が、停車と同時に揃ってため息をつくと、すかさず車輌の後ろへ回り込み、バックドアを開けた。黒い寝台車と喪服の男がふたりいれば、誰が見ても遺体搬送と思うはずだが、念のためふたりは荷台スペースの棺に向かって、うやうやしく合掌した。
そして、かつての遺体輸送でコンビを組んだ勘が、いまだ残っているのか、慣れた手順でストレッチャーのストッパーを外し、棺とともに車から引きずり出すと、ムダのないスマートな作業で、あっという間にオートロックの玄関口へと到着させた。
祐太郎は、あらかじめ奈々子から預かっていたカギを玄関ドアのコントロールパネルに差し込み、ドアが開くやいなや、江籐とともにロビー奥にある地下ボイラー室の入り口ドア前へとストレッチャーを移動させ、その手前で素早くマットを敷くと、棺を床に下ろしたのだった。
「確かに、ここなら住人にも見られることはないな・・・」
事前に奈々子から教えてもらったこの場所を、改めて見まわしながら、祐太郎がつぶやいた。
「お疲れ様でした」
江籐が棺に声をかけ、その蓋を開けるとすぐに、祐太郎は奈々子の両眼を手で覆った。暗闇から、いきなり明るい場所に目をさらさないためである。
奈々子は、祐太郎の手を握りしめながら目を開けると、ゆっくり棺から身を起こした。
「ありがとう。江籐さん、小嶋くん」
奈々子は立ち上がりながら、ふたりを見つめて言った。
「あっ、そうだ。忘れてた」
祐太郎はそう言って、上着のポケットから預かっていたマンションのカギを奈々子に渡した。
「そうだ、私も忘れてたわ」
奈々子も咄嗟にそう言って、コートのポケットから小さなメモ紙を取り出して、たった今受けとったカギを添えるように、祐太郎に差し出したのだった。そのメモには、奈々子の部屋番号が書かれてある。
「えっ、どうして・・・」
「ん~、なんとなく。持ってて欲しいから・・・。じゃ・・・、また」
意味ありげな奈々子の言葉に、祐太郎は何も言えず、ただ、二階へと上がる階段に向けて、遠ざかる後ろ姿を見送るだけであった。

登戸の金沢企画に到着し、着替えを終えた祐太郎は、江籐とともに駐車場に止めてあるタクシー車両に向かっていた。
「江籐さん、ほんと急なお願いに付き合っていただいて、ありがとうございました」
「うちも、いい値段で寝台車を使ってもらったし、有難かったよ」
「ほんと、助かりました」
江籐の言葉に、祐太郎は改めてお礼を言いながら、車のエンジンを始動した。
「頑張れよ、この色男!」
「あっ、はい。それじゃ」
祐太郎は、はにかんだ笑顔で江籐に別れを告げると、世田谷通りへと向かってアクセルを踏んだ。
「ピーピーピー」
車の無線システムからの発信音である。
ディスプレイには、本日午前十一時ごろ青山銀杏並木通りで、反対車線へ急転回した車両は至急、本社営業部へ連絡するよう指示をする内容であった。
祐太郎は、前方の左側にコンビニを見つけると、速度を落としてパーキングエリアへと車を進めた。そして、車のサイドブレーキをかけ、ポケットから携帯電話を取り出すと、本社営業部へとダイヤルした。
「もしもし、営業第五課の小嶋ですが、今日、青山銀杏並木通りで急旋回した件で・・・」
「ああ、その件ね。えっ?ひょっとして、祐太郎さんがやったの?」
電話の相手は、明日午前十時までの宿直当番をしていた営業第三課長、三宅であった。
「ええ、ちょっと事情があって・・・」
「とにかく、センター案件になっちゃってるから、今から至急帰庫してもらえるかな。詳しい話はドラレコ見ながら教えてくれる?」
センター案件とは、東京タクシーセンターに寄せられたクレームやトラブルに対して、当事者は速やかに報告書を提出し、場合によってはセンターへの出頭、面談、そして勤務停止になることもある重大案件のことである。
祐太郎は、すぐに会社へ戻ることを伝え、電話を切った。三宅課長とは、ちょっとしたクレーム相談でも、親身になって聞いてくれる間柄である。今日の宿直当番が三宅であったことに、祐太郎は少し安堵感を覚えていた。
車内のデジタル時計は、午後九時を過ぎている。
祐太郎は、再び車のエンジンをかけ、都内の西早稲田にある会社へと向かった。

新宿駅から明治通りを池袋方面へ向かうと、通り沿いの西早稲田エリアに祐太郎が勤務するメトロキャブ本社パーキングビルがある。
祐太郎は、車内から守衛係の男性に手で挨拶をした後、そのまま車でスロープを六階へ上がり、営業本部事務所へと急いだ。
「お疲れ様です」
祐太郎はそう言って、入口ドアを開けると、静まり返った事務所には三宅のほか、相談役の長谷川五郎が奥のデスクに座っていた。
「待ってたで、坊っちゃん。早速、ドラレコ見せてぇや」
長谷川が、いつもの口調で立ち上がり、三宅とともに近づいてきた。
「相談役まで・・・」
祐太郎の言葉に三宅が、自分の判断で長谷川に連絡したことを告げた。場合によっては、社長にまで報告を上げる可能性があるセンター案件だけに、事前に判断を仰ぐ必要を感じたらしい。
祐太郎から、ドラレコのカードリーダーを受け取った三宅は、すぐさま自席のパソコンとつながるリーダーデバイスに挿入した。
「確か、時刻は今日の午前十一時でしたよね」
そう言いながら、三宅がパソコン画面の隅に現れた時刻一覧からクリックすると、録画された映像が、はっきりと映し出された。画面には、青山一丁目に向けて、背後から並走へとスピードを上げる白いベンツ、そんな外部と車内での様子が音声とともに流れた。
およそ二十分間、三人は黙り込んだまま、パソコンの画面に見入った。
「これは、いま流行りの、あおり運転ちゅうやっちゃなぁ。また、後ろのベッピンさんが、『ベンツを振り切ってくれ』って依頼してきとる・・・、うん、まあ~報告書だけで構わんやろ」
長谷川の言葉に、祐太郎は胸を撫で下ろした。
「センターからの話では、通報者はフィードバックを求めていないということですから、相談役の見立てで、私も問題ないと思います」
そう言って三宅は、所定の報告書を祐太郎に渡し、隣の休憩所で記入するよう促した。
三宅の言葉に従って、祐太郎はカウンターにある鉛筆と消しゴム、そして現場見取図を描くための定規を持って、事務所のドアを開けた。
「ああ、坊っちゃん、もう今日は上がったほうがええで、疲れたやろ」
「はい、そうします」
背後から聞こえた長谷川の温かさを感じる言葉に、祐太郎は、なぜか体の力が抜けたような、倦怠感に包まれた。そして車に戻り、課金メーターの清算ジャーナルを出力すると、そのまま駐車スペースに車を移動させ、休憩室へと向かった。

「三宅課長、悪いけど、さっきのドラレコ、赤坂見附の信号待ちの映像のとこ、もう一回見せてくれんか」
祐太郎が事務所を出た後で、長谷川が三宅に指示した。
「あっ、はい。でも・・・、どうかしたんですか」
三宅はそう言いながら、パソコン上で指定の画面をリプレイした。
「そう、ここや。後ろのベンツ、運転してる男や。ん~、サングラスが邪魔やなぁ」
長谷川の言葉に三宅は、コロンビア通り入口の信号待ちでは、サングラスを外していたことを伝えると、その画面へと早送りをして見せた。
「やはり、坂本や、坂本憲次。三宅課長、確か・・・あんたが主任になった頃に担当した事故、覚えとるやろ、五年前・・・、高速道路でのスリップ事故や」
「ええ、お得意先の重役を乗せてた時の・・・、でも、あれは前のバイクが先にスリップ転倒して、その衝突を避けようとした坂本さんは、減速しない横のトレーラーが邪魔で、仕方なく壁側に・・・」
目を閉じたまま、三宅の話を聞いていた長谷川が、ひと言つぶやいた。
「坂本には、気の毒なことをしたなぁ」
この事故を起こした後、得意先の会社からは、メトロキャブとの契約解除の申し入れがあった。しかし、会社として、契約解除を避けたいと交渉を続けた結果、坂本を解雇することで、相手側に承知してもらった過去がある。その際には、組合側ともかなり揉めた経緯があり、結果として、長谷川と馴染みのある、都内のハイヤー会社へ転職を斡旋したのだった。
長谷川と三宅は、黙ったままで腕を組み、静止した映像の中に写る坂本の顔を、ただじっと見つめた。

隣の休憩室には、雑談をしながら遅い夕食をとるドライバーが数人いた。そのためか、邪魔にならないよう祐太郎は、入口に一番近いテーブルに腰かけて、所定の報告用紙に、手書きで状況説明を記入していた。
奥にある大型テレビは、深夜のニュース番組を映している。
「では、次のニュースです。今日午後、女優の新藤奈々子さんが突然行方不明になった件で、都内の自宅マンション周辺は、一時的に、多くの報道陣で埋め尽くされた状況でしたが、たった今、新しい情報が入ったようです。それでは現場からの中継です」
突然の報道に驚いた祐太郎は、思わずテレビの前に駆け寄った。
「こちら、都内の自宅マンション前に来ています。これから間もなく、新藤さんの所属事務所スタッフから、今日の騒動に関する説明と、それとは別に何か新たな発表がある模様です」
そして、マンション前には、事務所の幹部らしき男性と、マネージャーの浅井が現れた。それと同時に、周辺にいた取材陣が一斉にふたりを取り囲むと、各社それぞれにマイクを向けた。
「本日は、お集まりの皆様ならびに、周辺にお住まいの皆様に、多大なご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ございませんでした」
浅井はそう言うと、隣の男性とともに深々と頭を下げた。
「え~、本日の、新藤奈々子、失踪、行方不明という誤報につきましては・・・」
隣の男性がそう言うと、今日の経緯について詳細な説明を始めた。まず、失踪、行方不明の誤報については、昨日収録したバラエティ番組の地方ロケから東京駅に戻った後、明日にもクランクアップを迎える狛江市でのドラマロケを前に、タクシーを使って現地を下見していたこと、そして携帯電話の電源が切れて充電ができなかったことから、プライベートな知人が行方不明と勘違いし、今回の騒動につながったという内容であった。
男性がそう言い終わると、各社からは一斉に質問が飛び交った。しかし、今回は周辺の住民への配慮から、質問を一切受け付けない短時間会見であると男性が説明し、次の新たな発表について、と話題を変えた。
「では次に、新たな報告がございます。弊社所属の女優、新藤奈々子は、現時点での契約中または検討中のお仕事が、すべて終了次第、半年間の休養に入らせていただくことといたします」
「オオォ~」
取材陣が一斉にざわめき、驚きの声を上げた。
「では、詳細は明日の撮影がクランクアップした後に、新藤奈々子、本人が記者会見にて説明いたします。本日は、大変お騒がせいたしました。既に深夜、遅い時間となっており、近隣にお住まいの方々には、大変ご迷惑をおかけしております。どうぞ報道各社様におかれましては、速やかに社へお戻りいただきますよう、お願い致します」
男性のコメントが終わると、テレビ画面は報道スタジオへと切り替わった。
メトロキャブ本社の休憩室にある時計は、午後十一時をまわっている。
テレビ画面を見つめながら、祐太郎の頭の中は混乱していた。
「破局、復讐、裏の顔、そして、休養・・・」
奈々子との会話のなかで、祐太郎が不可解に感じていた言葉のいくつかが、思わず口からこぼれ落ちた。それと同時に、自分が未だかつて経験したことのない迷宮へと向かっているような感覚を覚えた。

第二話 おわり


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