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「東京恋物語」第六話:ホストへの道

昨日、白いベンツの追跡をバスタ新宿で振り切り、その後、奈々子を自分のワンルームマンションに送り届けた祐太郎は、そのままタクシードライバーとして最後となる業務を続けて、午前四時半に終了した。これからは、半年間の休職に入り、学生時代から住む大久保の小さな部屋で、短い間だが奈々子と暮らすことになる。
祐太郎は、午前六時に最後の営業精算報告を終えた後、その三十分後には自宅ワンルームマンションの部屋の前に立っていた。そして、入口ドアにある呼鈴ボタンを押そうとしたが、すぐにその手を止めて、静かにガキを指し込むと、ゆっくりドアを開けた。早朝に帰宅するとは伝えていたものの、まだ寝ているであろう奈々子を起こさないようにと考えたからである。
「あら、お帰り」
奈々子は、入り口のすぐそばにあるキッチンで、なにやら料理を作っているようだ。
「えっ、もう起きてたの?」
「そうよ、だって主婦なんだもん」
そう言う奈々子を、祐太郎は微笑みながらも不思議な感覚で見つめた。
つい先日まで女優業をしていた、いや、今もなお収録済みのドラマやCMでは、テレビ露出の多い有名女優が、こんな狭いワンルームマンションで自分を主婦だと言っている。その姿に祐太郎は、人生の奇妙な縁ともいえる不思議さを感じていた。
「なにボ~っとしてるの?先にシャワーでも浴びたら?」
「あっ、ああ、そうだね」
味噌汁のいい香りが漂う部屋の中で、祐太郎はすぐに着替えを済ませると、ボクサーパンツひとつだけを身につけて、バルスームへと入っていった。
シャワーを浴びた後、八畳ほどの広さしかない部屋に戻った祐太郎は、中央に置かれたローテーブルに、ふたり分の朝食が置かれているのを見た。
「こんなものしかできないけど、ごめんなさいね」
そう言う奈々子が用意した朝食は、シャケの塩焼き、卵焼き、味噌汁、そして漬物といったシンプルなメニューだったが、祐太郎にとっては、久しぶりにコンビニ弁当以外の、出来たてで温かな料理を目の前にしていたのだった。
「ありがとう。じゃ、いただきます」
「昨日の夜、近くを散歩してたら、大きなスーパーがふたつあったの。どっちも深夜まで開いてるから、つい何回も行っちゃった」
奈々子はそう言って、昨晩はひとりで、深夜の半額セールになった弁当を食べたのだと話した。部屋の片付けや水回りの掃除をしていると、何も食べないまま深夜になったから、ということだった。
「ぷっ・・・」
半額セールの弁当と聞いて、祐太郎は、思わず食べていたご飯粒を噴き出しそうになった。
「僕はよく半額セールの弁当や総菜狙いで、深夜に行くけど、奈々ちゃんがそんなことするなんて、ちょっとイメージが・・・」
「でもね、好きな人と過ごす、ささやかな生活も悪くないわ」
奈々子は、瞳を輝かせながらそう言った。そして、どこで買ったのか、女性用のジャージ姿が妙に似合っていることに、祐太郎は気がついた。
「そのピンクのジャージ、以前から持ってたの?すごく可愛いんだけど」
「あっ、これ?実はね、昨日、掃除道具を買いに外に出たついでに買ったのよ。それとね・・・」
祐太郎は、食事をしながら、奈々子の止まる気配のない話を、ただひたすら聞いていた。
「ねえ、何かリアクションしてよ。わたしばっかり話してるじゃない?」
ふてくされた奈々子の顔が、なぜか無性に愛くるしく見える。
「明日からタクシーの仕事は休職になるけど、近いうち、ホストの面接を受けた後は、情報収集するからホスト会社の寮住まいになるし・・・、こんな奈々ちゃんの顔は、しばらく見れなくなるな~って、ふと思ったんだ」
「バカね。じゃ、それまで・・・、いっぱい愛してくれる?」
そう言って近づいてきた奈々子に祐太郎は、ポニーテールに束ねた髪をなでながら、うなじへと手をまわした。そして、先ほどまで感じていた眠気が、まるで嘘のように、祐太郎はひたすら奈々子を求めはじめていたのだった。
 
地下鉄の乃木坂駅からほど近いオフィスビルの中に、エムケーフォースの本社がある。その会議室では、宮野が開発チームを前にして、新商品アプリの開発コンセプトを、スクリーン映像を見せながら説明していた。
「一般的なタクシーの配車アプリは、既に他社の商品で飽和状態です。ウチは、別の切り口でタクシー業界向けの配車アプリを作りたいと考えています。それは、マイ・ドライバーアプリ。つまり、乗客が、お気に入りのドライバーを指名して配車させることができる、新しいタイプのアプリです」
そして宮野は、最初のターゲットとして、業界でも中堅規模であり、フランチャイズでなく、すべて直営で都内に営業所を展開しているメトロキャブを想定していることを伝えた。
「できれば、最長でも三か月以内にプロトタイプを完成していただきたい。その前後で一度、提案先へのプレゼンをしたいと考えています」
宮野はそう言って、ミーティングの進行を開発担当役員に任せると、席に置いていた資料に目を通しながら、頭の中では、昨日、坂本が車の中で発した言葉を思い返していた。
「いま企画中のタクシー配車アプリですが、他社との差別化を図るために、ドライバーを事前に指名して配車できる機能を追加してもいいんじゃないですか?」
そう言って坂本は、そのアプリをメトロキャブに提案することで、所属するすべてのドライバーを事前にデータ登録することが可能になり、奈々子の交際相手を特定することができることや、奈々子が何を企んでいるのかを掴むヒントが見えてくるのではないかと話した。
この言葉を受けて、宮野はすぐに車内から携帯電話で、まだコンセプト企画の段階であったタクシー配車アプリ開発に、ドライバー指名機能を付加することを、開発担当役員に指示したのだった。そして宮野は、ひと晩で正式な企画書を作成させると同時に、今日の会議を緊急で召集していたのだった。
「では、以上で会議は終了と致しますが、最後に社長から何かありますか?」
開発担当役員の言葉に、宮野は考え事をしていたせいか、しばらく反応することができなかった。
「社長?最後に何か・・・」
開発担当役員が再度、宮野に声をかけた。
「ああ、失礼。では、みんな、急なお願いで申し訳ない。しかも開発は突貫スケジュールになるが、よろしく頼む」
その後、ミーティングは終了し、メンバーは会議室を退出していったが、宮野はただひとり席に残り、なおも資料を見ながらも、頭の中では別のことを考えていた。
「もしかして、奈々子はNPO法人を立ち上げた後、ウチに対して何か仕掛けてくるのかもしれない・・・」
そうつぶやいた宮野は、赤坂にある自社ビルを拠点に、新宿歌舞伎町を絡めて秘密裏に展開しているネットワーク・アプリのことを考えていた。
「ブーブーブー」
着信のバイブ音を感じた宮野は、上着のポケットから携帯電話を取り出した。
財務担当役員から、株式上場に向けた事前打ち合わせが、間もなく別の会議室で始まるというリマインドメッセージである。今年の秋を目途に、エムケーフォースは東証マザーズにIPO銘柄として新規上場する予定であるが、その前提として、煩雑なデューデリ(財務や法務に関する事前精査)作業が控えており、社内はコンプライアンスに敏感になっていたところであった。
「まさか・・・」
宮野は、うつろな視線を天井に向けながら、そうつぶやいた。

大久保通りの歩道には、夕暮れ時になっても、若い女性たちが途絶えることなく行き交っている。
朝食も終わらないうちに、ローテーブルの横で、ひたすらお互いを求め合った祐太郎と奈々子は、狭いセミダブルベッドの上で、ふたり向かい合わせになって、長い眠りについていた。そして、ようやく午後五時頃になって、ベッドから起き上がったふたりは、大久保通りを路地へと入り、歌舞伎町方面に向かっていた。
「なんだか日本じゃないみたいね」
「確かに。でも長いこと、この街に住んでると、感覚が麻痺してきたのか、特に何も感じなくなったんだよなぁ~」
祐太郎は、そう言うと奈々子の手をつないだ。
コリアタウンと言われるほどに、多くの韓流グッズや韓国料理、そしコスメの店が軒を連ねる路地は、もはや日本ではない雰囲気を作り出している。
「なんだか、昔を思い出しちゃった」
奈々子はそう言うと、幼い頃の思い出を語り始めた。
横浜で生まれた奈々子は、小学校に入学してすぐ両親が離婚したため、近くに住む母方の祖母に引き取られたのだった。というのも、父親と母親は離婚してほどなく、それぞれ再婚し、新しい生活を始めたからである。
その頃、祖母は横浜市内の介護施設で働いていた。そして、貧しいながらも女手ひとつで、奈々子を育て上げたのである。そんな最低限ともいえる生活ではあったが、休みの日には、横浜中華街で美味しい料理を食べるのが唯一の楽しみとなっていた。
「少ないお給料から、孫の私が喜ぶならって、いろいろしてくれたわ」
「やさしいおばあちゃんだったんだ」
「ええ、私のことを一度も叱ったことはなかったわ。中学時代は、ちょっと悪い女の子だったけどね」
なぜなら奈々子は、多感な中学二年生の頃、祖母が体調を崩したことで、金銭的な問題が生じ、修学旅行に行くことができなかったのである。やがてその体験が、自分の両親がいないことに対するコンプレックスへと発展し、中学三年の頃には、他者に対して攻撃的になり、最終的には家に引きこもりがちな生活を送るようになっていた。そんな奈々子を、少しでも元気付けようと祖母は、東京の芸能事務所が主催する新人女優オーディションへ応募することを勧めたのである。特段、これといった趣味もなかった奈々子は、言われるままに応募したところ、見事、グランプリを獲得したのだった。それはちょうど、奈々子が中学校を卒業する頃の出来事であった。
「それを契機に、奈々ちゃんの人生は大きく変わっていった」
「ええ。そしていま、あなたに出会ったことで、また大きく変わってゆくかもね」
「うっ、なんだかプレッシャー感じるな~」
「大丈夫よ。わたし昔から逆境や貧乏には慣れてるから・・・。何があっても・・・」
そんな奈々子の言葉に、祐太郎は凄みを感じた。これまで、両親の元で育ち、大学時代はマンションの家賃こそ自分でバイトしながら支払ったものの、学費など大きな出費はすべて親に頼っていた。
「まだまだ、子供だな、恥ずかしいよ」
 祐太郎の言葉に、奈々子は握っていた手を、強く握り返して立ち止まった。
「それがいいの。あなたの・・・、そんな素直さが・・・、好きなの」
そして奈々子は、祐太郎を見つめた。
路地裏の街灯の下、ふたりはお互いの過去を癒し、そして許し合うかのように、それぞれの唇を重ね合わせていた。

大久保の小さなワンルームマンションで奈々子と過ごし始めた数日後、祐太郎は、宮野が展開する裏ビジネスのヒントを得るため、事前に奈々子から聞いていたホストクラブへと向かって、歌舞伎町の中を歩いていた。
この数日間、祐太郎はインターネットでホストクラブの情報記事や動画を見ながら、その実態を頭に叩き込んでいた。特に、シャンパンコールの様子は、ホストクラブならではの盛り上がりを感じる。しかし、どうして女性はホストにハマるのか・・・、それが一番の謎として残っていた。
「確か、このビルの三階だ」
ホストクラブを経営するエスプリグループの系列店ゼウスは、区役所通りに面したバッティングセンター横に建つビルの三階に入居していた。
事前のメール連絡で、面接時間は決まっており、ゼウスの代表である三上瞬と、午後五時半に店の中で会う約束をしている。そして、問題がなければ、その後は、そのまま体験入店として深夜一時まで働くことになる。
三階でエレベーターを降りた祐太郎は、内心恐る恐るゼウスの店舗ドアを開けた。
「失礼します、面接で来た、小嶋と申します」
間接照明で薄暗い状態であった店内が、その瞬間にパッと明るくなった。すると次の瞬間、奥のほうから男性の声が聞こえた。
「ああ、小嶋くんね。どうぞ、入って」
「失礼します」
真面目にもスーツを着ていた祐太郎はそう言うと、L字型になったアプローチを抜けて、接客フロアへと入っていった。
思っていたほど、店内は広くはなさそうである。入って左側に受付と会計のカウンターがあり、右側には、五十平米程の接客フロアが見える。
代表の三上と思われる男性が、カウンターから書類を持って現れた。耳が隠れる程度にストレートな茶髪、そして半袖のラガーシャツにジーパンというラフな服装である。年齢は二十代後半くらいか。そして、接客フロアの一角にあるボックス席に祐太郎を案内すると、自分の名刺をテーブルの上に置いた。
「代表の三上です。よろしく」
「小嶋祐太郎と申します。よろしくお願いします」
「履歴書持ってきた?」
「あっ、はい」
祐太郎はそう言いながら、黒いビジネスリュックから履歴書を取り出した。
「なるほど、いま大久保に住んでるんだ。でも、どうして寮に入りたいのかな?」
「実は、家賃滞納で、もう出ないといけなくて・・・」
祐太郎は、事前に考えた想定問答のとおり答えていた。
「なるほど。え~っと、これまでの仕事は・・・、葬儀屋のバイトをしてたって?」
祐太郎は、このホストクラブが宮野とつながっていることを考えて、タクシードライバーという職務経歴は記載しなかったのである。そんな履歴書を見ながら三上がつぶやくように言った。
「はい。やはり葬儀屋のバイトより、もっとお金になる仕事がしたいと思って・・・、いろいろ調べてみたら、ゼウスさんがホストを募集している記事を見つけて・・・」
「いい大学出てるのに、葬儀屋してたなんて、ちょっともったいないね」
「学生時代は、あまり勉強してなかったもので・・・」
そんな祐太郎の返事を聞いていた三上は、少し間を置いて話し始めた。
「了解。でもまあ、そんな急に稼ぐホストにはなれないかもしれないけど、小嶋君って、結構イケメンだし、ヘアメと衣装次第では、いけるかもね」
「えっ、ヘアメって・・・」
「ああ、ヘアメイクのこと。色も茶髪で軽くウェーブをかけると、ん~、イイ感じになると思うよ。今はビジネススーツを着てるけど、もっとゆるい服にすればさらに磨きがかかる感じだね」
三上はそう言うと、早速今晩から体験入店をするように勧めてきたのだった。
「これが、ウチの入店マニュアル。開店前の朝礼が午後六時だから、それまでこのレジュメ読んでおいてくれるかな。あと、源氏名も考えといて」
「あっ、はい」
「それと、何かあったらカウンターにいるから、声掛けて」
「承知しました」
祐太郎はそう言うと、緊張が解けたせいか、ソファーの背もたれに寄りかかって、大きく息を吐いた。そして周囲を改めて見回した後、手元にある入店マニュアルに目を通しはじめた。そこには、エスプリグループの総代表である美月涼の挨拶文から始まって、ホスト業界の専門用語や、営業規則、接客の仕方など、多肢にわたって記載されていたのだった。
「意外と、しっかりしたマニュアルだな・・・」
そして祐太郎は、真剣なまなざしでマニュアルをめくりはじめていた。

午後六時。
ゼウスの接客ホールには、祐太郎を含めて出勤したホストたち十数名と、内勤スタッフ二名が、ボックス席に並んで座り、朝礼がはじまった。
まず、司会役の内勤スタッフ、トシヤが全員の前に出て、挨拶をはじめた。
「それじゃ、全員姿勢を正して・・・、おはようございます!」
「おはようございます」
「声が小さい!もう一度。おはようございます!」
「おはようございます!」
「よし。では続いて、代表からの挨拶。三上代表お願いします」
トシヤの声に合わせて、カウンターから全員の前へと、三上が現れた。
「みんな、おはよう!」
「おはようございます!」
全員の声が大きく響いたことに満足した表情で、三上が話し始めた。
「まず、今日、体入する新人を紹介する。小嶋くんです。源氏名はユウ。それでは、ユウくん、みんなに自己紹介してくれ」
そして祐太郎は、先ほどの面接時から着ているビジネススーツ姿で立ち上がると、「ユウです。頑張ります。よろしくお願いします」という簡単な自己紹介をして着席した。
その後、三上は昨日の売上状況や、トイレ奥のベランダで勤務時間内の無断喫煙と思われる形跡があったことから、今後同様な行為があれば減給することを告げて、朝礼は終了した。
その後、祐太郎はソファーから立ちあがると、事前に内勤のトシヤから言われていたトイレ掃除へと向かった。先に女性トイレを済ませて、その後は男性トイレを掃除することになる。
「ユウさん、僕もトイレ掃除なんです。一緒にやりましょう」
そう声をかけてきたのは、高校卒業後すぐにホストを始めた健太だった。入店してまだ二ヶ月とのことである。
「そうなんだ、よろしく」
祐太郎は、まだ若干幼さの残る健太にそう言って、女子トイレの中へ入っていった。
ホストクラブの女子トイレは広い空間になっており、まずは大きな鏡のあるパウダールーム、そして奥が最新機能の付いた便座のあるトイレ空間になっていた。
「ん?このモニターって・・・」
祐太郎は、トイレの便座横にある壁掛け型の小型モニターが気になった。その画面からは、グループ売上トップテンのホストや、イベント紹介の動画が放映されているが、次に現れた画面では、女性向けアダルトコンテンツの紹介が放映されていた。
「ちょっとエッチなビデオでしょ?でも、すっごく人気あるんですよ」
便座を磨きながら、横目でモニターを見ていた祐太郎に気がついたのか、健太がそう言って教えてくれた。
「へ~、意外だな~」
「だって、この女性向けAVって、男は結構イケメンで、しかもマッチョでしょ・・・、物語風に作ってるから、これを見はじめると、お客さんによっては、長時間トイレから出てこないってこともあるんですよ」
健太は笑いながらそう言った。
「なるほどね」
祐太郎は、まさにこれが、宮野の裏ビジネスを紐解くカギになると直感した。
「おいおい、口じゃなく手を動かして、さっさとトイレ掃除しろよ~。もうすぐ七時のオープン時間だぞ」
ホールを含めた全体の清掃状況を見まわっていたトシヤが、声をかけてきた。
「はい、了解です」
祐太郎と健太は、そう言うと、再び掃除の手を動かし始めた。

深夜、午前二時。
祐太郎はホストクラブでの体入、つまり体験入店を終えて、区役所通りをまっずぐ大久保通りへと歩いていた。その途中には、暗く狭い通りがある。ヘルプ役としてかなりの酒量を飲み、千鳥足となっていたためか、祐太郎は歩道と車道の段差につまずいてしまったが、少しバランスを崩す程度で、まだ意識はしっかりとしていた。
そして、ようやく辿り着いたと言わんばかりに、部屋のドアを前にした祐太郎は、膝に手をついて深呼吸すると、ポケットからカギを取り出し、部屋のドアを開けた。
「お帰り、大丈夫?」
奈々子の声だった。
「えっ、奈々ちゃん、まだ起きてたの?」
「うん。初日だって言うから、心配で・・・」
「ありがとうネ。チョ~ットばかし・・・、酔ったかな」
祐太郎はそう言うと、玄関先で靴も脱がずに横になった。そして、なぜかその後の記憶がないまま、朝を迎えることになったのである。

午前八時。
目覚めると、祐太郎はいつの間にか、ひとりベッドで眠っていたようだ。着ていた服はすでに脱いでいて、いまはTシャツとボクサーパンツの状態である。
「昨晩、帰ったあとの、記憶が・・・、ない」
祐太郎はそうつぶやくと、ローテーブルの上には、手作りのサンドウィッチと奈々子が書き置いたメモがあるのを見つけた。
(お疲れ様でした。今日は、青山の事務所で弁護士とNPO法人設立の打ち合わせをして、その後は、恵比寿の自動車学校があるから、帰りは午後四時頃になります)
「午後四時か・・・、会えても一時間半くらいだな」
祐太郎はそう言うと、シャワーを浴びるために、バスルームへと向かった。

午前十時。
奈々子が作ったサンドイッチを食べ終わった祐太郎は、ひとり歩きながら、新宿三丁目へと向かった。
ホストの衣装として薄手のジャケット、そしてメンズ用のサマーストールを買うためである。というのも、それは昨晩、内勤のトシヤが、都内でも人気のメンズショップを教えてくれたからであった。
トシヤは、細身のスタイルで、切れ長の目が印象的な好青年である。年齢は二十代半ばくらいで、同年代に見えた。接客ホールでの彼は、インカムから延びるイヤホンを耳にあて、常に店内の込み具合をみながらヘルプホストを配置する、つけまわし、という重要な役割を担っている。
祐太郎は、トシヤの言っていたメンズショップを見つけると、早速、中へと入っていった。
「これがいいかな・・・」
元々、自分が着る服には無頓着だった祐太郎は、何気なく目についた商品を手に取って、試着してみた。
「ぴったりで、よく似合っていますよ」
女性店員が声を掛けてきたため、そのついでに、お勧めのストールを探してもらうと、祐太郎は早々に会計を済ませて、その足で以前から通っていた大久保エリアの理髪店へと向かった。
通常、ホストクラブは、歌舞伎町エリア内に契約しているヘアサロンを持っている。希望するホストは、そこに予約さえすれば、代金は給与天引きで精算するため、気軽に行くことができるのだが、入店したばかりの祐太郎には、まだ使う許可は下りていなかった。
大久保通りから少し離れた場所にある、レトロな佇まいで、祐太郎が行きつけにしている理髪店に予約なしで訪れたが、運よく店内には客が一人もいない状況だった。
「あの~、すみません、ダーク系のブラウンに染めたいのですが・・・、あっと、それと・・・、できればホストっぽくカットしていただけますか?」
恥ずかしさを抑えながら、祐太郎は馴染みの男性にそう伝えた。
「いいよ。極上のホスト風に仕上げてあげるよ。あと、パーマかけてもいいかい?」
「あっ、はい。じゃあ・・・、お願いします」
「お兄さん、以前から思ってたけど、結構、草食系の美男子だから、ゆるふわパーマがいいと思うよ」
そう言われた祐太郎は内心、自分は草食ではないと複雑な心境ではあったが、理髪店の男性にまかせて、カットを始めてもらうことにした。

午後三時。
大久保にある自宅の部屋に戻った祐太郎は、早速、買ったばかりの濃紺色のカジュアルなジャケットと、淡いブルーのサマーストールを取り出した。そして、ホワイトデニムのスキニージーンズと、ブラウンのVネックシャツの上に、それらを身につけたのだった。
「まあ、ホストに見えなくはないな」
バスルーム内の鏡を見ながら、祐太郎はつぶやいた。
昨日の深夜一時、ゼウス店内で営業時間終了後にシャンパンコールのダンス練習をした際、祐太郎は、トシヤにその様子を動画撮影してくれるよう依頼していた。ローテーブルに携帯電話を置くと、祐太郎は、早速、携帯電話のアプリを使って、その動画を再生し始めた。
部屋の中には、大きな騒がしい音楽が流れ始めている。
祐太郎は、数回それを再生すると、やがて立ち上がり、その画像に合わせてダンスの練習を始めた。
どれくらい練習をしただろうか・・・、動画を見ながら、大きな音楽に合わせて踊るうちに、祐太郎は時間を忘れていた。
「あら、祐くん。何してるの?」
いつの間に帰ってきたのか、玄関には奈々子の姿があった。
「あっ、お帰り。いま、シャンパンコールの練習中なんだ」
そう言う祐太郎の姿を、奈々子はじっと見つめたままでいる。
「いや・・・。もう、やめて。ホストに行って情報収集してなんて・・・、もう言わないから」
奈々子はそう言って、一段と魅力を増している祐太郎へ、玄関から駆け寄るように近づいた。
「だって、祐くん、前よりずっと、素敵なんだもん。だから・・・」
そして奈々子は、祐太郎の顔を見上げた。
「大丈夫だよ、浮気はしないから」
「ほんとに?」
「奈々ちゃんオンリーだよ。これからも、ずっとね」
「じゃ、もう寮には行かないで。いくら遅く帰ってきてもいいから、ここにいて」
哀願するような奈々子の目を見ながら、ゆっくりと顔を近づけた祐太郎は、「わかった」と言い終えないうちに、その唇を重ね合わせていたのだった。

第六話 おわり


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