「東京恋物語」第五話:動き出す歯車
四月中旬に奈々子と出逢い、これからのミッションともいえる行動計画を練った、あの甘美でもあり、男として覚悟を決めた日から、すでに二週間ほどが過ぎていた。そんな四月も末にさしかかった平日の午後、いつも通りの日常を過ごしていた祐太郎は、自分の乗務する車を回送表示にして、西早稲田にある本社パーキングビルの六階に車を停めた。そして、遅い昼食をとるため、休憩室へと入って行った。
休憩室の奥にあるテレビには、お決まりのように多くのCMが流れている。
「すみません、ちょっとチャンネルを変えてもいいですか?」
祐太郎は、別のテーブルで同じように昼食をとっているドライバー達に、声をかけた。
「おう、いいよ。別に見たい番組もないし」
雑談をしていた年配ドライバーの一人が、祐太郎のほうを見て答えた。
「ありがとうございます」
そう言って、祐太郎は午後一時から始まる対談番組を見ようと、リモコンを操作した。
この対談番組は、芸能界の大御所といわれる女性が司会をして、巷で話題になっている時の人をスタジオに呼び、軽快でウィットに富んだトークで視聴者を楽しませている長寿番組である。
番組が始まると、テレビ画面には、照れたように微笑む、奈々子の姿があった。
祐太郎は、昼食のために買ったコンビニ弁当のふたを開きながら、テレビから聴こえる音声に耳を傾けた。
「今日は、多くの映画に出演されて、日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞など、有名な賞は、も~ォ、総ナメにされた女優、新藤奈々子さんをお招きしています。ずいぶんお久しぶりだけど、今日は、よろしくお願いしますね」
司会者の言葉を受けて、画面には、奈々子のはにかんだ笑みが映っている。
二週間ほど前、ふたりだけの作戦会議で奈々子は、この対談番組への出演は二度目だと言っていたのを、祐太郎は思い出していた。それは、奈々子が女優デビューの後、初めて主演を務めた映画が大ヒットしたことから、この番組への出演を依頼されたとのことだった。
「そういえばあなた、半年の休養期間って、来月、五月からでしょ?その間、どんなふうにしてお過ごしになる予定なの?」
司会者の話しに、祐太郎は思わず、テレビ画面を見つめた。
「若手の女優たちって、人に言えない、いろんな悩みを抱えていると思うんです。そんな時に本音で相談できる、NPO法人を作りたいと考えています。それと、プライベートでは、運転免許を取得したり、エッセイやリリックとか、書いていきたいですね」
そして司会者は、さらにプライベートなことへ話題を変えた。
「つい最近も、熱愛や破局やら、いろいろなお噂があったみたいだけど、奈々子さんご自身としては、いつまでに結婚したいとかって、おありになるのかしら?」
「そうですね。私ももう三十路を越えちゃいましたから~。いますぐにでもしたいです!」
この言葉を聞いた祐太郎は、思わず「ぶっ」と、口に入れていたご飯粒を、弁当の中に噴き出しそうになってしまった。
「じゃぁ、どなたか、いい人でもいらっしゃるのかしら?」
「ええ、そんな夢を見させてくれる人はいます」
奈々子がそう言った瞬間、司会者だけでなく、スタジオ内の撮影スタッフ達も驚いたのか、「オォ事前の打ち合わせで、結婚を話題にすることだけを取り決めていたのだが、司会者もここまでの話になるとは、思っていなかったようである。
「ちょっと、いきなりのサプライズでしたけど、差し支えなければ、どんなお方か教えていだだけません?」
「一般男性の方です」
「お仕事は、どこかにお勤めなさって?」
「ええ、タクシードライバーさんです」
「まあ、何て幸運なお方なんでしょうね。こんなに綺麗な方を奥様にできるなんて。でもね、世の男性方を全員敵に回してしまうから、逆にどうなのかしら?」
司会者と奈々子は、その後も、お互いに女性としての結婚観を語り合うかたちで、対談は進んでいった。そして、番組の最後に司会者は、「どうそ、お幸せになってね」という言葉で締めくくったのだった。
「第一フェーズ終了・・・、だな」
祐太郎は、そんな独り言を言いながら、食べ終わった弁当をビニール袋に入れ直して、休憩室を出ようとすると、背後では、タクシー仲間数人が、先ほど終わった奈々子の対談番組を話題に、盛り上がっている声が聞こえた。
昼食後、再び東京の街へとタクシー乗務に出た祐太郎は、数件のお客様を乗せた後、渋谷区役所周辺で車を停めて、トイレ休憩をとっていた。
「ん?五郎さんか?」
携帯電話のバイブレーションで、電話に気づいた祐太郎は、発信者名を見ながら「予定どおり来たな」とつぶやいて、応答ボタンを押した。
「坊っちゃん、さっきやなぁ、テレビを見てびっくりしてしもうたわ。新藤奈々子さん、タクシードライバーと付き合っとるって。もしかして、坊っちゃんやないかなぁと思うてな」
相変わらず、声の大きい五郎の電話に、祐太郎は携帯電話を遠ざけながら聞いていた。
「五郎さん、その件でちょっと相談があって・・・、今から会社で会えるかな」
祐太郎は、そう言って電話を切ると、車の空車表示を回送に変えて、新宿へと急いだ。
西早稲田の本社パーキングビル四階には、本社機能を集約させた、事務所エリアがある。
祐太郎は、四階の駐車スペースに車を停めると、あらかじめ五郎から指定された本社内の大会議室へと急いだ。
「失礼します」
祐太郎は、ゆっくり大会議室のドアを開けると、そこにはすでに父親である社長の小嶋正一郎、そして隣には長谷川が、楕円形の会議テーブルに並んで座っている。
「五郎さん、ちょっと、テレビのスイッチを入れてくれませんか」
正一郎が、会社の大先輩である長谷川に、丁寧語で言った。
「なんやら、マスコミは大騒ぎになっとるで」
長谷川は、そう言うと、手元のリモコンでチャンネルを変えながら、報道番組を探していた。
「おう、やっとる、やっとる」
会議室の隅に置かれたテレビ画面には、新藤奈々子、一般男性との電撃結婚まで秒読みか・・・、というテロップで、所属事務所からの正式なコメントと、奈々子直筆による交際宣言ともいえるファックスが映し出されている。
そして、ひと通り報道内容を見終わったところで、五郎はテレビの音量を下げた。
「祐太郎、このまま進めていいのか?」
正一郎はすでに、祐太郎がかつて東京駅八重洲口近くで乗せた乗客が、奈々子であったことを五郎から聞いており、それをきっかけにして親密になったと理解しているようだ。そして、先ほどの電話で祐太郎は、都心のカーチェイスや銀杏並木通りのスピンターンについて、正一郎には話していないことを、五郎から事前に聞いていた。
「はい。お察しのとおりですが、今後のことについては、新藤さんの事務所とも話しながら、進めたいと思っています」
「それで、新藤さんのご両親への挨拶は・・・」
正一郎が、そう言いかけたところで、祐太郎が話しはじめた。
「それが・・・、彼女の両親は、幼いころに離婚されていて、それ以降は母方の祖母に育てられたそうです。ただ、その祖母も数年前に他界されています」
「そうだったのか」
正一郎はそう言うと、何やら考え込むように、沈黙を続けた。
「分かった。まだ若造ではあるが、五郎さん、どうだろう・・・祐太郎を次のステップに進ませては」
正一郎の言葉に、祐太郎の教育係でもある五郎は黙って頷いた。
「あっ、あの・・・その前に、お願いがあります」
祐太郎が慌てて、テーブルから身を乗り出すように訴えた。
正一郎と五郎は黙ったままで、祐太郎を見つめている。
「言ってみなさい」
口を開いたのは、正一郎だった。
「来月から半年間、新藤さんのNPO法人設立や、彼女に関するいろんな事を手伝いたいと思っています。もちろん、その間にかかる僕の人件費は、彼女が払うと言っています」
「まあ、それもいい勉強には、なるんやないかな~、なあ、正一郎社長」
隣に座る正一郎へ顔を向けて、そう話した五郎を見ながら、祐太郎は思わずテーブルの下で小さくガッツポーズをした。
「では、一時的だが休職扱いにするが、いいか?」
正一郎は、今後当社にマスコミの取材が来ることを想定した場合、社員たちへの業務面や心理面での影響を考えて、祐太郎を休職させることが賢明であろうと判断したのである。
「ありがとうございます」
「じゃ、今月いっぱいで、坊っちゃんのドライバー登録は抹消するよう、事務員に伝えとくで」
五郎は、そう言って、正一郎に目配せすると、正一郎も頷きながら了解した。
「よろしくお願いします。では、失礼します」
祐太郎はそう言って立ち上がり、大会議室を出ると、天井を見上げながら大きく息を吐いた。そして、駐車していた車に戻ると、早速にも携帯電話の通信アプリを立ち上げて、奈々子へメッセージを打ち込み始めた。
(第二フェーズ、無事終了)
そして、ゆっくりと車を始動させた祐太郎は、空車表示を貸切表示に変えて、最後の第三フェーズとなるミッションへと向かった。
二番町にある奈々子の住むマンション周辺は、報道陣の取材もなく、閑静な住宅街にふさわしい気品を漂わせている。以前の失踪騒動とは違って、今回は、あらかじめ奈々子の事務所が用意したプレスリリースや、本人直筆で書き上げたファックスが奏功したようだ。
祐太郎は、奈々子の住むマンションの車寄せにむけてハンドルを切ると、エントランス前に車を停め、到着のメッセージを携帯電話で送信した。
すると、待ち構えていたかのように早速、奈々子がスーツケースをふたつ、両手でキャスターを転がしながら、玄関先に現れた。そして、それを無言で祐太郎に渡すと、まだ荷物はあるらしく、足早に再び中へと入って行った。どこにメディアのカメラマンたちが潜んでいるか分からない状況であり、親しく会話をした途端に、祐太郎の素性が暴かれてしまうからである。
そして、奈々子は大きなバッグと小さめのハンドバックを持って、玄関先に再び現れると、無言で祐太郎の車に乗り込んだ。
「もしかすると、後を追ってくる記者やカメラマンがいるかもしれないから、まずは適当に走って」
奈々子がそう言うと、祐太郎は無言のまま課金メーターをオンにして、ゆっくり車を日テレ通りへと走らせた。
「じゃあ、代官町の入口から首都高に乗って、新宿経由で大久保まで行ったほうがいいと思うよ」
祐太郎は、追尾する車を捕捉しやすくするために、付近の走行車が少ない代官町で首都高に乗って行けば、安心であることを伝えた。
「さすがね。お願い」
奈々子はそう言うと、にっこり微笑んで、目を閉じた。
車は新宿通りを半蔵門で左に折れて、千鳥ヶ淵へと向かっている。
「一台、怪しいタクシーがいるな」
祐太郎はルームミラーで後続車を見ながら言った。後ろには、麹町から追尾してくる緑色のタクシーが見える。
「大丈夫?」
奈々子が閉じた目を開くと、後ろを振り向きながら言った。
「まあ、見てて。この先、面白いことが起こるから」
祐太郎はそう言って、助手席に置いていたドライビンググローブを、両手に装着した。
千鳥ヶ淵を右に曲がり、代官町へと向かったところで、ルームミラーには、依然、緑色のタクシーが追尾していた。
右折後、しばらくすると右手反対車線側に首都高の入口が現れる。代官町入口の場合における首都高への入り方は、竹橋の交差点手前にあるUターン専用レーンを使い、反対車線に進入した後で、首都高の入口へ進むかたちになっている。
竹橋からの反対車線には、近づいてくる黒のポルシェが遠くに見えた。さらにその背後には後続車が数台いるようだ。
「ラッキー・ゴッド・ブレス・ミー」
車の運転で興奮すると、いつもこのセリフが出る祐太郎は、黒のポルシェとの距離感や間合いを見ながら、一気にUターンした。
緑色のタクシーも、すぐ後を追うように、慌ててUターンをしている。
「うまくいった」
祐太郎は、速度を少し落として、自分の車と、緑色のタクシー、そして黒のポルシェが三台つながった団子状態になったことをルームミラーで確認すると、勢いよく一気にアクセルを踏み込んだ。
「じゃ、いきますよ。しっかり手すりにつかまって」
祐太郎は、奈々子へそう言うと、首都高入口にはいる手前ギリギリのところで、咄嗟にハンドルを右に切った。そして、すぐさま左へと切って、わずかにサイドブレーキをかけると、後輪は若干ドリフトして、車は真っ直ぐな状態となり、首都高入口脇の安全地帯に停止した。
左に見える緑のタクシードライバーは、祐太郎の車が正面から消えるように右に移動したことに驚いたのか、首都高入口の手前で軽くブレーキを踏んだ。その途端、後続の黒いポルシェが怒ったようにクラクションを鳴らしたのである。
もはや逃げ場のない緑色のタクシーは、まっすぐ首都高入口に入らざるをえなくなり、そのまま首都高へと消えていった。その車の後部座席には、記者とカメラマンらしき男たちが乗っていたが、ふたりは、首都高入口横で停車した祐太郎の車を、まじまじと悔しそうに見ながら、首都高入口へと入っていったのだった。
「ぷっ、はっはっはっ」
後ろから、奈々子が噴き出して笑いはじめた。
「まるでマンガだわ」
「確かに。じゃ、これから我々は、一般道でゆっくり大久保へと参りましょうか」
祐太郎はそう言って、再び車を新宿方面へと走らせた。
祐太郎と奈々子が、尾行していた緑色のタクシーを首都高の入口で見事にフェイントをかけて見送った頃、時を同じくして宮野を乗せた白いベンツが、赤坂から青山一丁目を右折し、外苑東通りを新宿へ向かっていた。
「そうですか・・・、見失いましたか」
後部座席に座る宮野が、携帯電話の相手に向けて残念そうな口調で言った。
「まあ、仕方ないですね。ご連絡ありがとうございました」
宮野は、そう言うと電話を切った。
「週刊誌の記者からですか?」
運転席から、坂本が宮野にたずねた。
「ええ、以前に坂本さんを振り切ったタクシードライバー・・・、覚えてますよね。その車に乗っていたようですね」
宮野は先ほどの電話で週刊誌の記者から、奈々子がメトロキャブというタクシー会社を使っていたことや、運転手がイケメン風の若いドライバーであったことを聞いていた。この記者とは、宮野が女性専用のアルバイト紹介アプリを大ヒットさせた際に取材を受けて以来、懇意にしている。また、宮野からの事前リークを受けて、奈々子と六本木で食事をした後に、ふたりが寄り添う写真を盗撮、熱愛スクープ記事に仕立て上げたのも、この記者だった。
「ということは、もしかして新藤さんの交際相手は、そのドライバーということ・・・」
「まず、間違いないでしょうね」
坂本のつぶやきに対して、宮野は眉間にしわを寄せながら答えた。
宮野を乗せた白いベンツは、外苑東通りと新宿通りの交差する四谷三丁目交差点の信号機を前に、先頭車両の位置で左折の信号待ちをしていた。
「あれ?あの車は・・・、メトロキャブ。もしかして・・・」
車のウインカーを点滅させながら、目の前を通り過ぎる車を眺めていた坂本は、前方を右から左へと通過する一台のタクシーを目で追いかけながら言った。
祐太郎が会社から自分専用として使わせてもらっている車は、富国自動車の最高級クラスで、法人タクシーとしては数少ない車種であったため、目立つのである。
「ちょっと、追ってみますか?」
坂本は宮野にたずねた。
「ええ、お願いします。もし、週刊誌の記者が見逃した車なら、奈々子が、今後何を企んでいるのかを知る手がかりになるかもしれませんから」
そして、坂本は車を左折させると、次の信号の手前で停止している祐太郎の車を見つけた。この新宿通りの車線は片側五車線もある広い通りで、祐太郎の車は外苑西通りの富久町西交差点へ通じる一番右のレーンにいた。
信号が青に変わると、坂本も後を追うように一番右のレーンへ車線を変更し、祐太郎の後を追った。
四谷四丁目交差点。
祐太郎はハンドルを右に切って、外苑西通りを富久町西交差点へ向かった。その交差点は、靖国通りにつながっており、さらに明治通りへと進めば、祐太郎の住む大久保エリアのワンルームマンションへ行くことができる。そしてこの日、奈々子が大きなスーツケースをふたつも持参していたのは、祐太郎のワンルームマンションに仮住まいをするためであった。すでにマスコミや世間に、自宅である二番町のマンションを知られた以上、しばらくの間、どこか別の場所で生活する必要があると、奈々子自身が感じていたからである。
「白いベンツが後ろにいるな」
祐太郎は、後ろの奈々子にそう言うと、以前に青山の銀杏並木通りで振り切った白いベンツかどうか確かめるために、富久町西交差点手前にある大木戸坂下の信号で、ゆっくりとUターンをした。そして、後続の白いベンツも、同じようにUターンしたのをルームミラーで確認すると、祐太郎は白いベンツをこれからどうやって振り切るかを考えた。
「緑色のタクシーの後は、白いベンツ。私たちって、人気者ね」
「そんな気楽なこと言って・・・、いまどうするか考えてるんだから」
祐太郎は、苦笑しながら奈々子にそう答えると、何かを思いついたように、一気にアクセルを踏んだ。
この周辺は、交通量が非常に多く、以前のようにスピンターンで振り切ることは難しい。
祐太郎は、先ほど通過した四谷四丁目交差点へ、右折レーンを青信号めがけて加速し、御苑トンネルへと入っていった。
「奈々ちゃん、ちょっと揺れるから、しっかりつかまって」
祐太郎はそう言って、車のヘッドライトを点灯させると、二車線あるトンネル内を、他の走行車を縫うように、次々と追い越しはじめた。
時速は、瞬間的ではあるが八十キロを超えている。
「マジか?」
同じように後ろから、ぴったりとついてくる白いベンツを、ルームミラーで確認しながら、祐太郎は驚いたように言った。
「あの白いベンツのドライバー、ただ者じゃない。奈々ちゃん、あのドライバーのこと何か知ってる?」
祐太郎は、奈々子に白いベンツのドライバーについて聞くと、詳しくは知らないが、かつてタクシードライバーをしていたらしいと話した。
「なるほど」
納得した祐太郎は、御苑トンネルを抜け、新宿駅南口に向かう登り坂を一番左側の車線へと車を進めていた。右手が新宿駅南口、そして左手は長距離バスとタクシー専用のターミナルビル、バスタ新宿となっている。
ルームミラーには、数台後ろに、白いベンツの姿が映っている。
祐太郎は、車のウインカーを左に点滅させ、ゆっくりとバスタ新宿のターミナルビルへ車を進めると、運転席側の窓を開けて、入場口で立っている警備員に声をかけた。
「お疲れ様です。すみませんが、数台後ろにいる白いベンツが左折で入ろうとするかもしれませんから、注意して下さい」
バスタ新宿は、規則として一般車両が入ることはできない。
敬礼する警備員に、祐太郎はそう言って、スピードを落としながら左折入場し、ルームミラーで背後の様子を見ていた。
「やはりな」
背後には、警備員と話をしている白いベンツのドライバーがいた。しかし、警備員が笛を鳴らしながら体を張って行く手を阻んだため、白いベンツは、あきらめた様子で去っていった。
その様子をルームミラーで見届けた後、祐太郎はターミナル三階の内部を一周し、再びバスタ新宿の出口に戻ると、甲州街道を右折して明治通りから大久保通りへと向かった。
多くのアジア系ショップが軒を連ねる大久保通りは、平日でも原宿並みに若い女性たちが両側の歩道を歩いている。
祐太郎は、そんな歩行者に注意しながら、右側にあるコインパーキングに車を停めた。
「奈々ちゃん、ここからちょっと歩くけど、いいかな」
「もちろん。大丈夫よ」
そして、ふたりはスーツケースやバッグを車から取り出すと、祐太郎の住むワンルームマンションへと向かった。
大久保通りから、路地を少し入った場所には、多くの一軒家やアパート、ワンルームマンションが立ち並ぶ、庶民的な風景が広がっている。その中でも、センスの良さを感じるこぢんまりとしたワンルームマンションに、祐太郎が大学時代から住んでいる部屋があった。
「へ~、意外と綺麗にしてるじゃん」
「まあ、今日のために少しだけど掃除したから」
「じゃ、ここで・・・、いまから新婚生活がはじまるのね。わたしたち」
「えっ、まだ結婚してないんだけど・・」
そんな祐太郎の返事に構うことなく、スーツケースを開けた奈々子は、クローゼットに自分の服を収納しはじめた。
「とにかくこれで、予定した第三フェーズまで終了したってことかな」
祐太郎はそう言って、楽しそうに荷物を片付けてゆく奈々子の姿を見つめていた。
午後六時。
新宿歌舞伎町を貫く区役所通りは、昼間の静けさから、次第に夜の喧騒へと変貌しつつあった。
先ほど、メトロキャブの車をバスタ新宿で見失ったものの、気を取り直して平静を取り戻した坂本は、白いベンツの後部座席に宮野を乗せて、靖国通りから区役所通りに入り、風林会館のある交差点を左折すると、ゆっくりとしたスピードで花道通りを進んでいた。
「懐かしいですね。この街は」
宮野が後ろから、懐かしむように言った。
「ええ。お互いに店や時期は違っても、この歌舞伎町では、いろいろありましたからね」
坂本は、そう言いながら、車をパーキングに駐車すると、宮野とともにネオンが輝き始めた繁華街の中へと入っていった。
多くのホストクラブが入居するビルの五階には、都内と地方都市でホストクラブを十数店舗展開するエスプリグループの旗艦店、アポロンがある。この日はここで、グループの全体会議が午後六時半から開催されることとなっていた。
アポロンの重厚なドアの向こうには、豪華なソファーやシャンデリアが印象的な、まるで別世界を思わせる空間が広がっている。そして、その奥で照明を全開にした中、会議の準備のために指示を出しているひとりの男性に、宮野が声をかけた。
「おはようございます、元気そうですね」
「おう、宮野くん、おはよう。坂本さんも・・・、それじゃあ、開始の時間まで、おふたりここに座って待っててくれるかな」
そう答えた男性は、エスプリグループの総代表、美月涼である。すでに四十歳は越えているが、ブラウン色に染め上げた髪は、ビジネスカジュアル風にカットされ、その美しい顔立ちと、細身のスーツを着こなすシルエットは、現役の男性アイドルと言っても過言ではない。
「そうだ、宮野くんが提案してくれたアプリ。うちが導入して、もう一年以上が経つかなぁ、会員はもう一万人を越えたみたいだよ。おけげで、その収益が彼らのベーシックインカムになって、新入りのホストたちも、安心して働いてくれてるよ」
「それはよかったです。もうあんな、不幸な末路をたどるホストは、一人も出したくないから」
そう言う宮野はかつて、埼玉県の県立高校を卒業した後すぐに、このエスプリグループでホストをしながら、コンピュータ専門学校へ通っていたのだった。そして、その頃に宮野と時期を同じくして入店した年長のホストが、日々続く多量の飲酒がもとで肝臓疾患となり、最終的には心不全で死亡したのである。病院へ行くお金もなく、当時、店の代表であった美月が異変に気づいた時は、すでに末期症状になっていた。すぐに緊急入院をしたものの、一ヶ月後には病院の一室で、静かに息を引き取ったのだった。まだ二十代後半の若さであった。
このホスト業界には、過酷な家庭環境や生い立ちを脊負った若者たちが、夢を求めて集まってくる。群馬県出身の美月もそんな一人であった。高校を卒業後、財布には五千円しかない状態で、ボストンバッグひとつ持ったまま上京。そして、ホスト経営者が管理する寮に住み、すぐさま歌舞伎町で働きはじめると、一年後には店のナンバーワンホストにまで、のし上がっていた。未成年のため店内での接客時に飲酒はできないが、その美しい容姿と群馬弁の田舎風なギャップが人気を集めたのである。やがて、美月はその店の代表となり、経営に携わるようになると、店舗数をさらに拡大させて、現在のエスプリグループを作り上げたという歴史があった。
「それでは、いまから全体会議を始める。まずは総代表からのお言葉がある。さらに今日は、ゲストとして来ていただいているエムケーフォースの宮野社長からメッセージをいただく。みんな気持ちを集中させて聞いてくれ。いいか!」
「ハイ!」
司会の男性がそう言うと、会場を埋め尽くすほどに集まったホストたちが、一斉に返事をした。
第五話 おわり
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