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日記本を書いてみたかった

 日記文学っぽい作品を書いてみたいとずっと思っていた。

 それは作家の日記作品を読んで、その心地よさに惹かれていたからだ。もう少し正確に言うと、日記作品でなくても、断片で構成された作品が好きだった。

 最初にそう感じたのがいつだったかはうろ覚えだが、感銘を受けたいくつかの作品を思い出すことができる。
 たとえば、サム・シェパードの『モーテル・クロニクルズ』

 日付は記されていないが、これはエッセイというより日記の感触に近い。

 サンフランシスコ郊外での暮らし、旅のモーテルや移動中の列車の中の話などが、果たして実話なのかどうかは知らないが、とてもビビッドに描かれている。初めてこれを読んだとき、行間からにじみ出る寂寥感にヒリヒリした。そしてこういう作品が書けたら最高だと思った。

 リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』も素晴らしかった。これは日記というより詩だが、それでも言葉の喚起力が強烈で、しかもユーモアに満ちていた。このときもまた、こんな作品が書けたら最高だと思った。

 日本の作品では、島尾敏雄『日の移ろい』が胸に沁みた。これはまさしく日記文学で、奄美大島での鬱の日々が描かれる。読んだときは自分も少し陰鬱な気分だったため、作者の心と自分の心が共振するかのように感じられて、作品世界に没頭してしまった。
 ふしぎなもので、鬱の日記なのに、読むと癒された。

 他にも気になる日記作品がいくつかあったと思う。

 とにかく断片を紡ぎながら、行間に世界を築いていくような日記文体は、物書きとしてどうしてもチャレンジしてみたいジャンルとして自分の目標のひとつになった。

 おそらくそれは意図してできるようなものではないのだろう。

 なにしろ明日何を書くか予測することができないのだから、全体の構成を細かく考えておくことができない。毎日毎日書いていくなかで、少しずつ調整していくか、あるいは調整なんかせず、自然に任せるのかもしれない。

 たぶん、そうやって勝手な断片を積み重ねていくなかで、意図せざる世界がたちあがってくるところが見たかったのだ。自分が作ろうとして出来た世界ではなく、自分の中から自分の知らない世界が偶然の作用によって生まれるところを経験したかったのだ。

 同時に、物語に回収されない現実の断片みたいなものを書き残しておきたいという意図もあったと思う。

 そうして書いたのが、『スットコランド日記』と『スットコランド日記深煎り』である。ともに1年間の日記で構成されている。よくスコットランドの日記と間違われ顰蹙を買ったりしたが、自分ではかなり満足できる作品になった。

 なにより、どんな作品になるか最終形をイメージしながら書いていくいつもの手法と違い、どうなるかわからないままに書いていくのが、なんとも自由で心地よかった。他の作品では筆が重く、書くのがつらいと思うこともあるのに、この2冊の日記に限っては毎日書くのが楽しみだったほどだ。1日の枚数制限がないのも書きやすかった。

 今でもまた日記作品に挑戦したいと思うことがあるが、先の2作を書いた頃と違って出歩く機会が減ったことや、先の2作のなかで躍動してくれていた子どもたちが青年になってしまったため、彼らのプライバシーを慮って書かないでいる。

 それとも介護日記とか、老人日記のようなものを書けばいいのだろうか。

 そもそも私の日記などニーズがあるのかどうか。

 とはいえ近頃noteに積極的に取り組む気分になったのは、そんな日記への憧憬がいまだ残っているせいなのかもしれない。


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